【長崎県長崎市】宮地獄八幡神社
八幡町の陶器で出来た鳥居で有名な神社。寛永二十年(1643)、天台宗の大覚院存性坊という修験僧が高麗町(今の八幡町)に大覚院を創建、正保三年(1646)に山城国から本社八幡宮を勧請して院内に祀ったのが起源。
承応二年(1653)に社殿が創建されて以来、市民は八幡町の八幡様として親しみ参拝者が多かった。元禄六年(1693)、二代良宝院存慶は寺号を白鳩山南岳院大覚寺と改め、宝永元年(1704)、黄檗宗に転向したため、単一の黄檗宗下の大覚寺となった。
しかし、八幡神社は従来のまま境内に安置され、宝永五年(1708)に改修、正徳五年(1715)修繕、元文五年(1740)再建されている。明治維新の際、八幡神社と改称、住職は神官となった。
明治十一年(1878)福岡県宗像郡津屋崎の宮地嶽神社を勧請して以後、この名が
通称されるようになったが、鳥居の額には「八幡」「宮地嶽」が併記してある。
明治二十一年(1888)に白地に呉須染付の陶製の大鳥居が奉納された。この鳥居は有田の香蘭社制作によるもので、陶器の鳥居は全国でも有田の陶山神社、佐賀の松原神社、愛知県の瀬戸神社に見るくらいで珍しい。昭和三年(1928)に初めて神幸式を行い御神輿を銭屋川の清水で清め遷宮祭を行った。
由緒
当社は承応二年、修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し、この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまる。宝永元年(1704年)大覚院が黄檗宗に属したことより唐船の人達にも当社は尊崇され毎年多額の寄進が唐船よりよせられた。
明治元年(1868年)神仏混合廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現代に至っている。
相殿の宮地嶽神社は明治十一年(1878年)福岡県宗像郡宮地嶽神社の分霊が奉祠されたものである。
なお、当社の所在地である八幡町の町名は、延宝八年(1680年)この地区の町名が新たに名づけられたとき当社の祭神に因んで八幡町の町名が定められている。
この鳥居は、明治21年に有田磁器窯による大型細工でつくられた鳥居である。親柱部分に残る銘によって製造人が岩尾久吉、角物細工人が金ヶ江長作、丸物細工人峰熊一であることが判明する。
有田に製作者が同一のものがひとつあるが、他に類例がない稀少な存在として平成8年10月に新しく文化庁が導入した文化財登録制度により、県内で初めて登録された。
陶器製鳥居
拝殿
神社名 | 宮地嶽八幡神社 |
住所 | 長崎県長崎市八幡町8 |
TEL | |
御祭神 | 応神天皇、神功皇后 |
創建年 | 1653年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |