【福岡県新宮町】相島積石塚群
国指定史跡 相島積石塚群
相島石塚群は西日本で最大の積石塚群で、石の海岸線に200基を超す積石塚が広がる風景は圧巻です。相島大塚(120号墳)、相島北塚(1号墳)、相島南塚(142号墳)の復元整備を行っています。石だけで造られた古墳のすばらしさをご覧ください。
鼻栗瀬(通称:めがね岩)と鼻面半島
鼻栗瀬は海中からそそり立ち、波の浸食により中央部に大きな穴が開いている高さ約20mの奇岩です。鼻面半島には島ができた際の火口跡、それにマグマが冷え固まる際にできる柱状節理も観察でき、独特な風景をおりなしています。この風景は江戸時代に相島に立ち寄った朝鮮通信使の一行も絶賛しています。
福岡県指定名勝 鼻栗瀬及び鼻面半島
鼻栗瀬(下段左側・中央)は胴島、めがね岩とも呼ばれ、島の東海上約150mの海中からそそり立つ高さ約20mの奇岩で、波の浸食により中央に大きな穴(海蝕洞門)が開いていて、マグマが冷え固まる際に出来るみごとな柱状節理を確認することができます。鼻面半島(下段左側・右側)も柱状節理が発達していて、鼻孔状の海蝕洞が見られ、ともに独特な景観を見ることができます。また、海浜は直径10㎝程度の円礫などからなり、波が引く際には、石のぶつかり合う音が浜全体に響き渡ります。
これらは、江戸時代に相島へ立ち寄った朝鮮通信使使節団の記録や同じく江戸時代に貝原益軒により書かれた筑前国続風土記などにも書かれており、古くから景観としてのすばらしさが称えられています。
朝鮮通信使関連墓地
この区域にある石積みは積石塚ではなく江戸時代の墓地で、相島積石塚群の発掘調査の時に一緒に見つかりました。
黒田家文書によれば、享保4年(1719)7月24日に第九次朝鮮通信使来日の際に準備をしていた藩士、浦水夫が海難事故に遭い、61名が亡くなったと記載されています。
そして、この墓地群からは「享保4年7月24日」の日付や名前が刻まれた墓石が4基見つかっています。また、発掘調査の結果、人骨や寛永通宝が見つかっていることなどから、これらの墓が、黒田家文書に記載されている遭難者の墓であることが分かり、文献史料と発掘資料が一致した貴重な例となりました。
遺跡名 | 相島積石塚群 |
住所 | 福岡県糟屋郡新宮町大字相島 長井浜 |
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年代 | |
指定区分 | 国指定史跡 |
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