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【福岡県大野城市】竹田謙窓先生追慕碑

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竹田謙窓先生追慕碑
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竹田子斐は、春庵先生(竹田定直)の裔(子孫)なり。先生より鴻儒(大学者)を以って顕れ、家其の学を伝う。旧藩(黒田藩)の修猷館を建つるや、梅盧(竹田定良)先生祭酒(学政をつかさどる長官)となり、遂に世襲の職となり、子斐に及ぶという。

子斐名は、定■、別号は謙窓、■家芸をつぐ。戊午の歳(安政五年)余と東遊し、共に安積の門に入る(弟子になる)。余の塾を辞するに及び、子斐代わって塾教を督す。辛酉の歳(文久元年)藩主に■従し西帰して官職に任ず。乙丑の歳(慶應元年)側銃頭となり、丙寅の歳(慶應二年)館の祭酒となり、升班(昇任)して侍読(藩主に講義する)を帯ぶ、時に世変多く、子斐余と同じ使命を奉じて奔走し労あり。丁卯の歳(慶應三年)奥頭取となり陸士頭班に■る。侍読館職旧の如し、戊辰の歳(明治元年)藩主に従って京に登る。己巳の歳(明治二年)疾を以って職を辞す。辛未の歳(明治四年)秋月黒田氏の聘する所となり侍読を託せらる。置県の後各地の校職に歴任し、最期に改築修猷館に教導たり。明治二十二年十一月二十二日病没す。享齢五十七。

 子斐人と■り才敏、詩及び文を善くす。再び長崎に遊び、清人林雲達諸人と文学の交りを結び、書法趙松雪に学び、■実観るべし。

今追慕する者相謀り、財を■せて将に碑を牛頸の遺宅の傍の地に建てんとす。黒田侯爵金を賜いて挙を助けられる。子斐の余に十余才、学事より使事に及び、毎に其職を聯ね、終身親善なり。因ってここに銘を作る也。

■君の道を説く、克く■し、克く通ず、而も自ら視ること猶蒙のごとし。■君の事を処す。克く思い、克く■ず、而も自ら視ること猶浅きがごとし。唯謙の益を受くる、猶窓の光を納るるがごとし。その命の短折吾人の悲傷するところ。涙を■って筆を■ぎて、■に以って銘章を製る。