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歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【長崎県長崎市】滑石太神宮

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長崎県長崎市鎮座の滑石太神宮
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滑石大神宮社叢

 この神社は、もと大村藩領滑石村の氏神として萬治3年(1660)に創建されたもので由緒も深い。社叢は、小高い丘の広い範囲を覆い、社殿を中心に周囲い広がる。

 社叢を形成する樹木は、いわゆる照葉樹林で、高木のクスノキスダジイ・ツブラジイ・タブノキ・カゴノキ・イヌマキラカンマキ・ヒゼンモチ・ホルトノキ・アラカシ、低木のヒサカキ・ハクサンボク・ヤブツバキ・カクレミノ・マサキなどが多い。なかでもマキ・シイ・クスノキは数も多く、大木も少なくない。美しい社叢で、風致上また学術上にも価値が高い。


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竜由来

 元禄2年、本篭町の隣接する唐人屋敷に、唐人たちは、毎年正月上元の日(15)日に蛇踊りを・・。唐人屋敷内で行われる蛇踊りを本篭町の人たちが見習い、これを諏訪神事奉納踊りをし・・。唐人たちは色々と衣裳や楽器、小道具など入用品を寄付した。そして、本篭町に在住する町衆たちによって龍踊りが伝承された。明治10年に滑石大神宮の氏子である農民が雨ごい豊作を祈願して、本篭町から指導を受け、習い覚え滑石の龍踊りが伝えられ、長崎のよき伝統芸能として今日に至っている。勇壮絢爛な龍踊りは、龍頭から龍尾まで10名の龍使いと、玉使い1名の計11名で構成され、大変な重労働なので交替がひかえている。また、龍踊りは団体演技で出演者の気持が一致しないとできる芸ではない。使い手の性格や気質が龍体にそのまま表れ特に龍頭の使い手によってさまざまの龍踊りを見ることが出来る。


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龍踊りの龍
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滑石大神宮救護所跡

原爆の記録を綴る<長崎 滑石郷土史誌より>

昭和20年8月9日午前11時2分原子爆弾が松山町の上空500mで炸裂した。この一発の原爆によって浦上地区は廃墟と化し、長崎医科大学では、教官42人、学生535人、事務員206人、看護婦109人、合計892人がその犠牲となって死亡したのである。原爆の日長崎医科大学病院の調先生は、幸に怪我も火傷も負わなかったため、ここ滑石大神宮の拝殿を救護所として借りて多くの負傷者の治療を行った。負傷者として、長崎医科大学の角尾学長や山根教授が収容されていたが、22日の角尾学長の死によって閉鎖された。

生徒たちによるメッセージ

1945年8月9日11時2分長崎の街に投下された原子爆弾は一瞬にして多くの人々の命を奪いました。この滑石大神宮でもたくさんの人々が亡くなり、またたくさんの人々の命が救われました。原子爆弾の脅威は今も世界中にあるということを長崎市民として常に忘れずに、ここ滑石から平和を発信していきましょう。


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拝殿

 

神社名 滑石太神宮
住所 長崎県長崎市滑石6丁目1−11
TEL 095-856-8492
御祭神  
創建年 1660年
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【長崎県長崎市】松森天満宮

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長崎県長崎市鎮座の松森天満宮
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戦利兵器奉納ノ記

是レ明治三十七八年役戦利品ノ一ニシテ我カ勇武ナル軍人ノ熱血ヲ濯キ大■ヲ得タル記念物ナリ茲ニ僅テ之ヲ献シ以テ報賽ノ微衷ヲ表シ尚皇運ノ隆昌ト国勢ノ発揚トヲ祈ル


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奉納された戦利兵器
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県指定有形文化財 職人尽

 松森神社外囲いの瑞籬(垣)の欄間にはめこまれた30枚の板に薄肉浮彫りされたもので、図柄はいわゆる職人尽である。正徳3年(1713)、社殿改宗の際に奉納されたもので、彫刻者は御用指物師喜兵衛、同藤右衛門である。下絵を描いた画家は不詳であるが、当時の長崎奉行御用絵師小原慶山ではないかと考えられている。天保3年(1832)には、唐絵目利石崎融思が彩色を施した。

 職人風俗が精緻に描写されたこの彫り物は、歴史民俗資料としての価値とともに美術品としても高く評価されている。


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職人尽

境内の酉f:id:rekiken9:20190824210543j:image

境内のニワトリ
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拝殿
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本殿

 

神社名 松森天満宮
住所 長崎県長崎市上西山町4−3
TEL 095-822-7079
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場  
御朱印  

【長崎県長崎市】西山神社

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長崎県長崎市鎮座の西山神社
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西山神社(妙見宮)由緒記

 長崎聖堂の学頭で唐通事 蘆草拙が寛文年間(1660年代)から奉祀していた北辰妙見尊星と諏訪神社吟味役村田四郎次(酒屋町居住)が奉祀していた妙見尊神を草拙所有地であったこの浄地(現在地)に神社を建てて祀ることとし妙見様を信仰していた時の長崎奉行石河土佐守の許可を得て享保二年(1717年)から二年間の歳月をかけて享保四年(1719年)八月二十五日に社殿全部完成し西山妙見社と称えられ永らく北辰妙見大菩薩鎮宅霊符尊神鎮座の霊域となった。

 明治二年神仏混淆禁止令により御祭神を造化三神に改め西山神社と改称され今日に至っているが、社殿に奉納された白蛇・龍の額や絵が見られるのは白蛇や龍が妙見様の使者であったからである。安政四年(1857年)九月諏訪神社が火災焼失した折には御神体を西山妙見社に移し諏訪神社の仮宮が置かれたところでもある。

 境内には緋寒桜の古木があり正月には開花し初詣の人を楽しませており、また寛文七年(1667年)ジャワからザボンの種子が唐船船長・周九娘により蘆草拙に伝えられ境内にその種子を播いたところ見事に成長し、その元木の種子が各地に播かれ長崎近郊は勿論 島原半島・鹿児島地方までザボンが産出されるようになったが、現在元木の三代目・四代目の樹がなお枝を張っており歌で広く知られた「長崎ザボン」の発祥地である。


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西山神社の寒桜

 このサクラは、西山神社の長い石段を上りつめた右側にある。

 胸高幹囲1m、樹高7mで、明治30年(1897)1月に植樹の記録がある。近年は主幹の一部が腐朽するなど傷みがひどく、樹勢も衰え花付きも悪くなった。

 寒桜は2月上旬、つまり旧暦の元日ごろに開花するため元日桜ともいうが、この寒桜は開花期が早く、1月上旬には開花し、2月上旬には終わる。

 カンザクラ(寒桜)は、中国南部・台湾を原産とするカンヒザクラ(寒緋桜)を片親とした雑種といわれるが、他の片親の違いによって花色・花形・開花期に違いが出てくるものと思われる。


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拝殿
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本殿

 

神社名 西山神社
住所 長崎県長崎市西山本町8−18
TEL 095-823-1378
御祭神 天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神
創建年 1719年
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印

【長崎県長崎市】諏訪神社

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長崎県長崎市鎮座の諏訪神社
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御由緒

 長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、かつて長崎市内に祀られていた諏訪・森崎・住吉の三社は、焼かれたり壊されて無くなっていたのを、寛永二年(1625)に初代宮司となる青木賢清により、官許を得て西山郷円山(現在の松森神社の地)に再興し、長崎の産土神としたのが始まりです。

 さらに、慶安元年(1648)徳川幕府より朱印地を得て、現在地に鎮西無比の荘厳な社殿が造営されました。

諏訪神社は、幕府の朱印状に「諏訪大明神ノ社」と記され、「正一位」の神階と「鎮西大社」の称号を朝廷から賜り、更には、江戸時代中期の第百十二代霊元天皇さまから「神」一字の揮毫を親授され、長崎の氏神として、その時々の人々から厚い崇敬を受けてきました。

  安政四年(1857)不慮の火災に遭い、社伝の殆どを焼失致しましたが、孝明天皇明治天皇の御父君)の思召しにより、約十年の歳月をかけて明治二年(1869)以前にも勝る社殿が再建され、さらに、御鎮座360年(昭和五十九年)370年(平成六年)を記念して、二度の造営を重ね現在の社殿が完成されました。当神社の大祭(長崎くんち十月七・八・九日)は、絢爛豪華で異国情緒のある祭として日本三大まつりの一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。


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神門
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「まよひ子志らせ石」由来(迷い子知らせ石)

 この石柱は、明治十二年、当時の長崎県警察課、警察署に在勤する警部一同の手によって建立された。

 当時ここら一帯は氏神を詣でる庶民の往来で賑わったが時には人ごみにもまれて親を見失う子等も少なくなく、不安に泣き叫ぶその姿が道行く人々の憐を誘った。

 この実情を見かねた数名の警部は互いに資金を寄せ合ってこの石柱を建て、親と子の安心を念願したのである。

 雑踏で子とはぐれた親は北西の「たづぬる方」石面に住所と子の名を書き記し、迷い子を見かけた人はその子の手を引いて、子の名、年齢、特徴等と共に、わが名、住所を南面の「おしゆる方」石面にしたため、親の姿を待った。

 やがて子は再び親の懐に抱かれ、人々との暖かい思いやりに涙を流して手を合わせしっかりと手を握り合って去るその姿は数知れなかったといわれる。


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迷い子知らせ石
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止め事成就の狛犬

社伝によれば「止め事に霊験著しい狛犬あり」とあります。

昔から、家出の足止め・借金止め・受験のすべり止め・更に禁酒禁煙などの願い事に、コヨリを狛犬の足に巻き祈願する信仰があります。


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止め事成就の狛犬
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御神池
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拝殿
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本殿
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神社名 諏訪神社
住所 長崎県長崎市上西山町18−15
TEL 095-824-0445
御祭神 建御名方神八坂刀売神伊邪那岐神伊邪那美神・表筒之男神中筒之男神底筒之男神
創建年 1625年
社格 旧国弊中社
建築様式  
駐車場
御朱印

【広島県福山市】草戸稲荷神社

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広島県福山市鎮座の草戸稲荷神社
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拝殿
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拝殿から望む風景
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神社名 草戸稲荷神社
住所 広島県福山市草戸町1467
TEL 084-951-2030
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印

【広島県福山市】備後護国神社(阿部神社)

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広島県福山市鎮座の備後護国神社(阿部神社)

 

備後護国神社 御由緒 御神徳

 当神社は、昭和三十二年まで阿部神社と称えていましたが、国家のために殉じられた御英霊を合祀した備後護国神社と合併して、社名を備後護国神社と改め、阿部神社の社名はなくなりました。

 阿部神社の建立は、文化十年(西暦1813年)に時の福山藩主が、歴代の祖霊を祀ったのがはじまりです。

 御祭神は、大彦命、武沼河別命(二柱とも四道将軍)を始め歴代藩主をお祀りしてあります。

 御神徳は、御祭神の御功績によるもので、大彦命の開拓・平定による開運・家内安全・健康・厄除等です。

 歴代の中で特に阿部正弘公は、老中筆頭として国旗(日の丸)を制定され、嘉永六年(西暦1853年)ペリー来航に当たり和親条約を締結し、日本の開国と、福山に誠之館を創設して、近代教育の基礎をつくられた教育の神様で、天満宮と並び尊ばれ、受験合格・学業成就の神として信仰されています。


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宮本武蔵腰掛石の由来

 元和元年(1615)大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(1624~1629)武蔵は福山城に勝成を訪う。武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり水野家二番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗応。その時、武蔵が将監屋敷庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた、

 水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第二家老下宮氏の屋敷となる。明治四年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引払うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。


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宮本武蔵腰掛石
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阿部正弘公石造潜り

 正弘公は天保十四年(1843年)二十五歳にして江戸幕府老中、今の大臣になり教育に力を注ぎ、嘉永五年(1852年)老中筆頭、今の総理大臣に就き、江戸と福山に誠之館を建てる。安政元年(1854年)日米、日英、日露の和親条約を結び開国し、近代文明国、日本の基礎を作る。また、学問のできる人材を広く重用して教育の重要性を昂揚し、日の丸を日本の国旗を制定した人でもあります。阿部家十一代、福山藩主七代目の正弘公は、当神社の御祭神であり希望学校の合格、就職の御祈祷を受けられ、石造を潜り希望をかなえて下さい。


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阿部正弘公像
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拝殿
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本殿
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神社名 備後護国神社(阿部神社)
住所 広島県福山市丸之内1丁目9−2
TEL 084-922-1180
御祭神 大彦命、武沼河別命、福山藩歴代藩主
創建年 1813年
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印

【広島県福山市】三蔵稲荷神社

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広島県福山市鎮座の三蔵稲荷神社
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百度参りで願掛け

 神様にお願いを叶えてもらえるよう、百回お参りして祈願することです。「一念岩をも通す」の諺にあるように、不可能と思われることも、心を込めて行えば達成できる。願い事を心底百回繰り返すことによって、信仰心の篤さと切実を訴え神のご加護を得るということです。

このように願をかけることを「お百度参り」とか「お百度を踏む」といいます。一心不乱に神に向かい百度石と神様を通う儀式は平安時代から行われて来ました。

己を磨き心を研ぎ澄まして願いを叶える。

百度百度石を基点に本殿までの間を百往復します(左側通行)。数は「こより紐」を折って数えます。こより紐は社務所でお受けください。


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拝殿
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本殿
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神社名 三蔵稲荷神社
住所 広島県福山市丸之内1丁目8−7
TEL 084-922-1569
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印