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歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【福岡県久山町】若宮八幡宮

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福岡県久山町の若宮八幡宮
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当宮はその昔、現在地の南三百米に在り、天正十四年薩摩の島津家久が立花城攻略の時焼失した。慶長五年宮林の地に再建し、集落の移転と供に慶長十五年宮林より鳥越の現在地に移転す。

当時山田の村は、猪野川の流域(字古村)に在り洪水毎に人家流出する大災を蒙るため、時の庄屋(安河内五郎左衛門)深く之を憂い官に許を乞い、現在の下山田と、上山田の地に集落を移す大業を成し遂げる。

旧本殿棟札記録に由れば、宝永四年(西暦1707年)宝殿造営と在り、旧社殿は二百八十年の歳月を経る。

明治五年十一月三日、村社被定。須佐之男命と稲田姫神は境内に須賀神社として、保食神は同岩嶽神社として、同境内に、軻遇鎚神は岩戸原尾崎に愛宕神社として、菅原神は岩戸原天神に菅原神社としてそれぞれ祭祀在りしを、明治四十四年九月九日、現在の若宮八幡宮に合祀されたのである。

 亦大山積神は字大谷に在りしを昭和五年石祠と共に同境内に移し別に之を祭祀す。昭和十一年神殿、拝殿を全面改築し、更に同三十八年石段、参道等境内整備が行われた。

昭和二十六年宗教法人法公布により同二十七年、宗教法人若宮八幡宮を設立認可さる。昭和六十一年若宮八幡宮式年遷宮、並びに天皇在位六十年奉祝記念を迎えるに当り地元財産組合を始め、氏子有志多数より巨額の出資を受け、之を契機として御神殿を始め境内造物を悉く改築し、其の完成を待って同年五月大祭を執行す。
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若宮八幡宮古宮跡

 

 ここは現在宮山にある若宮八幡宮の跡地で、お宮はかつてこの宮林にありました。天正十四年(1586)戦禍にあい、慶長五年(1600)若宮八幡宮は宮山に遷されました。その後もこの地に対する信仰が残り、八幡神社が祀られました。明治四十四年(1911)八幡神社若宮八幡宮に合祀され、現在は若宮八幡宮のお旅所となっています。

 またこの古宮跡は天正年間(1573~1592)まで現在の上山田にある斎宮のお旅所で、社地内には地神社・竈門神社もあったそうです。

*お旅所とは神社の祭礼の時、神様を神輿に乗せて巡り歩く際に、途中でお休みする場所のことです。
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若宮八幡宮旧宮跡
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山神社

御祭神 大山祇神

御由緒 当社は字大谷に祭祀されていたが昭和五年、石祠ともに当宮境内へ遷座し祀る

 

猿田彦大神

御祭神 猿田彦神

御由緒 大正九年八月二十七日建立勧請す

 

大山祇神は山の神であるが、山から流れ出る水は田を潤し五穀を育むので農耕の神としても崇められている。また猿田彦神は、導きの神として道標的な役割で多くは祀られているが、神裔である大田命と同一視され豊作豊穣を司る神としても信仰されている。

右両御祭神は若宮八幡宮拝殿西側に祀られていたが、平成二十三年の式年遷宮の事業として此処に新たに宮地を整え遷座し祀る。


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山神社と猿田彦大神
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若宮八幡宮裏古墳

 

 若宮八幡宮裏古墳は直径約8mの円墳です。墳丘の一部は削られています。石室は横穴式石室で6世紀から7世紀頃のものと思われます。山田地区で墳丘が残っている唯一の古墳です。

 古墳は丘陵の端部に位置しています。現在は1基のみが保存されていますが、この時期の古墳は群集墳といわれ、数基から数十基の古墳がまとまってつくられることから周辺にも古墳があったものと考えられます。

 丘陵の南側には多々良川の支流である猪野川が平野を形成しています。平野部の発掘調査では弥生時代から平安時代にかけての住居跡などがみつかっており、集落が営まれていたことがわかっています。古墳はこの付近を治めていた人々のお墓であったと思われます。
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若宮八幡宮裏古墳
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拝殿
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本殿
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神社名 若宮八幡宮
住所 福岡県糟屋郡久山町大字山田1863
TEL  
御祭神 応神天皇仁徳天皇神功皇后須佐之男命、稲田姫神、保食神、軻遇槌神、菅原神
創建年  
社格 村社
建築様式  
駐車場
御朱印  

 

 

【福岡県粕屋町】平塚古墳

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県の文化財にも指定されている巨大な箱式石棺(別名/大隈石棺)が発掘され、弥生時代から古墳時代への移行を考える上で貴重な古墳とされています。昭和26年、旧大川村の村営住宅建設の整地工事中に発見され、発掘調査が行われました。古墳の採土前の状態は7~18mほどの墳丘であったとみられ、墳丘の中央からやや西南よりのところに石棺が埋められていました。この石棺内からは内行花文鏡片や菅玉なども出土しています。
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【福岡県飯塚市】八幡宮

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福岡県飯塚市鎮座の八幡宮
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(聖光上人伝)によれば、聖光上人は、建久五年(西暦1194年)明星寺五重の塔を再興の為に、大日寺山に入り、多数の人々の手で、大木を伐らせました。その時、ある大木を伐ったところ、その木の皮の下に文字が書いてありました。

その文字は

伊奈波 知和也不留 加美乃 伊我幾登 奈留曽宇礼之幾

(稲は、神様のお供物として捧げられるのが嬉しいように、木材も仏様の御堂となるのを喜んでおります)

 

村人たちは、この和字を見て、怪しみもせずに、なる程と思いました。というのは、村の古老が代々伝えきいた話があったからです。

 昔、因幡大夫という人が居られました。(宗像大社の大宮司の孫ということです)

平々凡々と毎日を暮らしている事に疑問を感じ、世の為、人の為になる事はないかと思い明星寺に正月一日より七日迄の七日間、おこもりをして、毎日三千賛百三十三回の礼拝をして修行に励まれました。満願の八日の朝になって、虚空蔵菩薩より、一尺二寸(約36㎝)の稲穂を戴き、喜び勇んで稲穂を抱いて、明星寺をあとにしました。

 その日は、色々と所用があって、遅くなり、日も暮れかけて到底家に帰りつく事は出来そうになかったので、仕方なく途中の大日寺で、一軒の民家に宿を乞い泊めてもらいました。

 ところが、その夜、民家の老主人が「私には、娘がおりますが、とても器量良しでございます。是非、あなたと夫婦になってもらえれば有難いと思います」と話をしたところ、大夫も快く承諾されて目出度く夫婦となりました。

 それから後は、夫婦で明星寺の虚空蔵菩薩から貰った稲穂を種にして、春に田を播き、秋には収穫して数年もたつと忽ち有福の身になりました。

 また、同時に村の人々にも種を分け与え、大日寺村は云うに及ばず、国中大いに繁栄したという事であります。

 二月一日、大夫は端座念仏眠るが如く往生されました。

 村人たちは、皆、大日寺山の大木を伐った時のあの文字は、昔の大夫の事をいっているのではなかろうか、そして、聖光上人は、あの大夫の生まれ替わり、誠に、有難い事というお話です。
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拝殿
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本殿

 

神社名 八幡宮
住所 福岡県飯塚市大日寺850
TEL  
御祭神 応神天皇神功皇后仲哀天皇、武内宿祢命、日本武尊天照大御神玉依姫命
創建年 673年
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印  

【福岡県筑前町】焼ノ峠古墳

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国指定史跡 焼ノ峠古墳

 

 昭和46年度(1971)農地改良事業に伴い発掘調査が行われ、九州最大の全長40mの前方後方墳であることがわかり、昭和50年2月13日に国の史跡指定を受けました。

 この古墳は、標高130.6mの城山から分岐する標高56mの丘陵上にあります。

 古墳は3世紀後半(古墳時代前期)のもので、平面形状は前方部が撥形に開き、後方部は北側がやや広くなる梯形となります。墳丘は、前方部が一段、後方部が二段で構成され、丘陵の地山を削り出し整形、後方部の二段目に盛土を盛っています。また、前方部西側前面に狭小な造出をもっています。古墳は、周溝まで含めると44.4m、後方部で幅28.3mとなります。死者を埋葬した主体部は確認できませんでした。周溝は、本来全周するものであろうが、狭小な丘陵上に立地するために流失したと思われ、現況では北側と前方部前面と東側の前方部からくびれ部で確認され、土師器の二重口縁壺や広口壺が周溝から出土しました。

 この古墳は、この地域の有力な豪族のものです。
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【福岡市南区】大平寺古墳

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柏原歴史散歩【大平寺古墳】

 

 大平寺古墳は6世紀末から7世紀初頭の古墳群で7基が確認されています。うち3基は消滅し、現在4基を見ることができます。この6号墳は残存部からの推定で直径約15m、高さ約3.4mの円墳で、南西方向に石室が開口しています。

入口の天井石には、石材を割るための矢穴が残っており、これは、江戸時代に古墳から石を抜き去ったという話が伝わっていることから、その痕跡と考えられます。

内部には、後世に地域の人たちによって観音様が祭られ、信仰の対象となっています。

また、源蔵池の南西部岸辺には、鉄滓(とけた不純物の塊)や製鉄炉の破片が散布していることから、古代の製鉄所があったのではないかと推測されています。
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石室入口
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【福岡市南区】羽黒神社

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福岡市南区羽黒神社
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創建の時代は明らかではないが、「筑前国風土記拾遺」に天正十四年(1586年)の当社に関する文書の存在を示す記載があり中世のころ出羽羽黒山の修験者によって勧請されたと考えられる。

 江戸時代には福岡藩主の深い信仰を受け、その武運長久、家内繁栄、無病息災と五穀豊穣の祈祷所でもあった。社殿等の新改築はその寄進による。特に神殿は荘厳な桃山造りで文化財に相当するものであった。また明治の初めまでは付近の集落の産土神であった。

 昭和二十年六月十九日福岡空襲によって社殿は焼失したが、昭和二十一年氏子によって再建され現在の社殿は昭和五十五年に再建されたものである。

 現存する鳥居、燈籠等の石造は江戸時代に建造された物が大部分であり、当社の歴史を示す文化財である。

 なを、文化、文政期における福岡藩主の信仰を示す文書も現存している。
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拝殿
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本殿

 

 

【福岡市南区】興宗寺(穴観音)

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福岡市南区の興宗寺
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穴観音(興宗寺)

 寺塚一帯には多くの古墳がありましたが、福岡城の築城の際に石垣の石として古墳の石が抜かれ、壊滅したと伝えられています。境内に残された古墳は、古墳時代後期(6世紀)の円墳で推定直径は約20m。主体部は南向きに開口する横穴式石室で、巨大な岩を用いた市内屈指の巨石墳です。石室内には、阿弥陀如来勢至菩薩、そして観音菩薩が彫られていることから、穴観音として親しまれ信仰を集めています。また境内には、忠臣蔵で知られる赤穂四十七士の墓もあります。
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赤穂四十七義士之墓並びに福岡義士会の沿革

 

赤穂四十義士は東京高輪泉岳寺に祭られ供養されているが昭和十年(1935年)篤志家木原善太郎氏(当時六本松在住)が私財を投じ、泉岳寺と同宗である興宗寺境内に赤穂義士の墳墓を模して、配列はおろか地形から玉垣まで泉岳寺のものと同型式の墓を建立されたもので全国的に他に類のない貴重な史跡である。

福岡義士会はこれを機に結成され、義士打ち入りの日を期し祭典を執行、祭典には頭山満氏が名誉会長となり時の市長参列のもとに地元住民並びに小・中学校児童生徒多数参列し盛大を極めた。

以後毎年十二月十四日祭典を実施した。終戦後一時中断していたが地元有志、特に興宗寺関係各位のご尽力により昭和二十八年祭典を復活し、遂年参拝者も多くなり今日に至っている。
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四十七義士の墓

元禄十五年十二月十四日(1702)は赤穂四十七士が見事主君の仇を討ち武士の本懐を遂げた日であり、この墓は東京高輪の泉岳寺と同型式です。毎年当日は、義士の遺徳を偲び冥福を祈る義士祭を行っている。
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血染めの石

田村邸内で浅野長矩公が切腹の折、介錯の血潮がこの庭石にかかったという。
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首洗いの井戸

吉良上野介の首をこの井戸で洗い、主君の墓前に供え報告したという。
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境内に古墳がある
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寺名 興宗寺
住所 福岡県福岡市南区寺塚2丁目22−11
TEL 092-541-2348
本尊  
創建年  
駐車場
備考 古墳あり