歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【長崎県大村市】旧円融寺庭園

f:id:rekiken9:20190804211953j:image

円融寺跡と庭園

 

 松林山大乗院円融寺は、江戸時代初期の承応元年(1652)大村四代藩主大村純長によって、徳川家光以下歴代将軍の位牌を祭るために創建された天台宗の寺院です。

 純長は幕府勘定奉行伊丹勝長の四男で、先代純信の養子となりました。しかし、幕府の正式の許可がおりる前に純信が亡くなり、藩の存続が危ぶまれましたが、三代将軍家光の裁可で跡目相続が許されたので、その恩義に報いる意味で、家光の没した翌年に建てられました。この様な寺は、御三家及び五万石以上の大名に限り幕府は許しましたが、純長の強い懇願によってできたと言われています。

 建設に当たっては、当時、五島灘一帯にかけての捕鯨業で莫大な財を成していた深澤犠太夫勝清の寄進により、その費用が賄われたと伝えられています。

 長い石段を上ると、前方の斜面に雄大な石庭が築かれています。巨石を数多く使用し、三尊方式による石組は、桃山時代の様式を色濃く残し、その規模の雄大さと傑出した石組は全国的にも数少ないものといわれ、昭和五十一年に国指定の名勝となりました。

 この寺は、明治維新に廃寺となり、戊辰戦争の戦死者を祭るための■忠瑩が建てられました。おち招魂社と改称し、ついで護国神社と改められ今日に至っています。境内には、母神瀬印相の戦死者の墓碑や、維新で活躍した大村藩の三十七士の石碑が残されています。


f:id:rekiken9:20190804211938j:image

国指定名勝 旧円融寺庭園

 

天台宗松林山大乗院円融寺は、承応元年(1652)4代藩主大村純長により、3代将軍徳川家光の位牌を祭るため創建された寺院で、その後、歴代将軍の位牌が祭られ、明治元年に廃寺となりました。

 純長は幕府勘定奉行伊丹勝長の4男で、3代藩主純信の養子となりましたが、幕府の正式な許可がおりる前に純信が亡くなったため大村藩は存亡の危機を迎えました。将軍家光の裁可により相続が許され、藩の存続がなされたため、その恩義に報いるため、特に幕府に願い出て建てられたものです。

 本堂及び書院の裏庭として造られた枯山水の石庭が残されています。廃寺になった後、石庭はツツジなどに覆われ、その姿を満足に現すことが出来ませんでしたが、昭和44年、東京農業大学に在学中の大村市出身の一学生により発見されたことから、庭園研究家の目にとまり、その価値が全国的に認められました。

 山の斜面を利用して、これを築山風に見立て、高さ8m・幅50mの斜面に青石を主材とした約400個もの自然石を使い、三尊方式のい石組みを基本とした立石が配置されています。中央部および左側には、数段の水落石を用いた豪華な枯滝があります。水落石には白色の石を用いており、いかにも自然の滝の水が落ちているようです。川の流れは、白い玉砂利で表されています。規模の雄大さと傑出した石組みは、江戸初期の庭園様式を伝えるものとして国の名勝に指定されました。


f:id:rekiken9:20190804211947j:image
f:id:rekiken9:20190804211959j:image

旧円融寺庭園

 

遺跡名 旧円融寺庭園
住所 長崎県大村市玖島2丁目505
TEL  
年代 江戸時代
指定区分 県指定名勝
駐車場