歴研

歴史好きの歴史好きによる歴史好きの為のブログ

【福岡県朝倉市】恵蘇八幡宮

f:id:rekiken9:20190910210259j:image

福岡県朝倉市鎮座の恵蘇八幡宮
f:id:rekiken9:20190910210128j:image

由緒 斉明天皇七年(西暦661年)建立

斉明天皇百済救援のため朝倉町長安寺の橘広庭宮に皇居と大本営を遷されました。中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と武運長久を御祈願のため宇佐神宮の祭神応神天皇の御霊を斉り朝倉山天降八幡を崇められました。その後、天武天皇の御代白鳳元年壬申(673年)斉明・天智天皇の二神霊を勅命により合わせ祭り恵蘇八幡三柱大神と称しました。昔は上座郡中三十三村の総社でしたが現在朝倉町の総社氏神です

 

斉明天皇藁葬地(御殉■地)

山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年五月九日(新暦六月十四日)橘広庭宮にお着きになり、七月二十四日(8月27日)病のため崩御されました(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御■葬され、軍を進め後に奈良県高市郡越知岡村へ移されると記されています。

 

木の丸殿遺蹟

天智天皇斉明天皇御■葬のあと御陵山下に木皮のついた丸木で忌み殿を建て十二日間喪に服されました。後世人々が「木の丸殿」と呼びました。

 


f:id:rekiken9:20190910210143j:image

恵蘇八幡宮の由来

 昔、郡中33カ村(上座郡)の総社として栄え、現在は朝倉町の総社となっている。応神天皇斉明天皇天智天皇を祭神として祀り、毎年10月15日に御神幸が行われている。

 由緒によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(朝倉町大字須川)に下られた。この時随行中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願にため、宇佐神宮大分県)に奉弊使を遣わされた。使の一行が惠蘇山麓に達した時、天上から白幡が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇天智天皇を合祀し、この頃社名を惠蘇八幡宮に定めたといわれている。

 現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。

 

木の丸殿跡

 皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、1日を1ヶ月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。

 

御陵山

 斉明天皇は661年7月24日、御歳68歳にて朝倉橘広庭宮でお亡くなりになった。7日後の8月1日御遺骸を朝倉山上に移し、一時葬ったと日本書紀には記されている。地元ではこの地を御陵山と呼んでいる。

 現在、陵上には石柵が巡らされ、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」と刻されている。

 

朝倉の関

 朝倉の関は、天智天皇が母である斉明天皇崩御により、木の丸殿で喪に服されていた頃、設けられたもので、西の「刈萱の関」に対する、東の「朝倉の関」で通行の人々を監視し、朝倉橘広庭宮の護衛にあたったと伝えられ、地元では「名乗の関」ともいわれている。

 

関守の墓

 「朝倉の関」の関守の墓だと伝えられ、巨大なさお石が立石した特異な墓である。また祭祀の立石ではないかとの説もある。

f:id:rekiken9:20190910210058j:image

木の丸公園の沿革と概要

第37代斉明天皇は661年5月朝倉橘広庭宮に遷られました。しかし、滞在わずか75日間で病のため崩御され、その御遺骸は皇太子中大兄皇子によりこの朝倉山の山頂に仮安置されました。皇太子は山腹に丸太の御所を造られ、母君の喪に服されたといわれています。

 このことにちなんで、町では平成4年自然と歴史を生かした木の丸公園を造成しました。総面積は33,600㎡で公園内には様々な広場が設けられ、人々の憩いの場、学習の場となっています。


f:id:rekiken9:20190910210135j:image

拝殿

 

神社名 恵蘇八幡宮
住所 福岡県朝倉市山田166
TEL 0946-52-0557
御祭神 斉明天皇応神天皇天智天皇
創建年 661年
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印