【大分県竹田市】広瀬神社
広瀬神社記
昭和十年に創建された当広瀬神社は、明治三十七、八年の日露戦争で、旅順港閉塞作戦に参加し、部下杉野兵曹長の姿を探し求め、一塊の肉片を残して戦死した元海軍中佐広瀬武夫を祭り、また、当地出身の戦没者1627柱を合祀している。
勤皇家の岡藩士の二男に生まれた広瀬武夫は単に勇猛武人であったのみでなく、当時ロシヤ研究家としても一流の人物であり、二千通にのぼる書簡、随想録等は文学的にも高く評価され、講道館に於けるエピソードと共に、人情に厚く高潔な人柄は今なお万人の敬慕を集めている。
海軍中佐広瀬武夫
広瀬武夫こそ真に九州男児の名にふさわしい人物の一人であろう。素朴な人柄は剛健・豪胆にして優しさを併せもち、さわやかな知性あふれる文学青年であった。
彼は軍人となった・九州は古来、大陸に接するため攻防の前線として度々外患に遭った。すなわち1019年刀伊(女真)の侵攻あり、1274年蒙古・高麗連合軍の侵入(文永の役)と1281年元軍(14万人・軍船四千四百艙)による第二次大襲来(弘安の役)は、対馬・壱岐・北九州に上陸を許して激甚なる被害をうけた。弘安の役では二ヶ月余に及ぶ戦闘の後幸いに大風雨起り辛うじて敵船を退けたものの、為に国力は大いに疲弊した。このとき北九州沿岸に築いた長大なる石築地に多くの防人を集め以後ますます備えをかためるに至った。自然、九州人は大陸と一衣帯水の国境にあって外に向かって身構える。
幕末・明治に入り外国列強は競ってアジアに勢力を拡張し小国日本の行方は大海の激浪にもまれる笹舟の如く、国際情勢は往時と比較すべくもなく激動の時代に入っていった。
明治の人・広瀬武夫は、元寇の役に善戦した筑紫菊池氏の流れをくむ。時代は変われ、先祖が元寇に備えて鍛造した菊池千本槍の穂身を改めて佩剣とし、常に護国の信念を固めたのであった。
広瀬武夫は日露開戦を阻止せんとして及ばず開戦直後、旅順閉塞作戦に二度までも死地におもむき、弾丸雨飛の洋上で沈みゆく福井丸の船中を部下杉野兵曹長を三度探し求め、遂に敵弾に散って還らぬ人となった。この人間愛と果敢にして沈着なる行動は、生前の人となりを物語る数々の書簡や遺品によって、さこそと容易に納得し得る。
広瀬武夫は独身にして三十六才十か月の短い生涯ではあったが、「誠」一途のその豊かな人間性は時代を超越して永遠のテーマを我々に問いかける。「愛」と「平和」と・・・。
広瀬武夫海軍中佐略年譜
明治元年5月27日 竹田市茶屋ノ辻に岡藩士 広瀬重武の二男として生まれる
8年 母登久子逝去、竹田小学校入学
10年 父重武飛騨高山区裁判所へ転任、■章小学校へ転校
16年 攻玉舎入学
18年 攻玉舎卒業、兵学校入学
22年 練習艦比叡に乗組む
29年 海軍大尉任官、磐城鑑航海長
30年 海軍軍司令部所属、留学、露国駐在武官
33年 海軍少佐任官
34年 父死亡、シベリヤ大陸を横断して10月帰国
35年 朝日艦、水雷長に任ぜらる
37年2月24日 第一次旅順港閉塞作戦決行、報国丸にて
37年3月27日 第二次旅順港閉塞作戦にて戦死、福井丸にて
昭和10年5月25日 広瀬神社創設
文武の誉れ高い 広瀬武夫像
広瀬武夫は、大政奉還の翌年1868年5月27日、岡藩勤皇の志士、広瀬重武の次男として市内=茶屋の辻に生まれました。幼くして母を失い、父に教育され、十四才の時、上京して攻玉社に学び、海軍兵学校を経て武官となり、ロシア・ドイツ・オーストリア等に留学。富国強兵の時流の中で質実剛健、至誠尽中、文武両道の資質を高めました。
明治二十七年、日露戦争が始まると、ロシアの東洋艦隊根拠地である旅順港閉塞の決死隊に志願し、17名の部下を連れ二回爆沈作業に参加しました(初回は報国丸、二回目は福井丸)
両岸の要塞と艦艇による猛攻を浴びながら、目標地点に到達し、爆破作業中に魚雷が命中、傾き沈みゆく船内での作業を終え引き上げようと人員点呼をすると、指揮官付きの杉野孫七兵曹長の姿がありません。他の隊員を短艇に移らせ、「杉野はどこだ、杉野、杉野」と船倉を再三探しましたが、遂に杉野は発見できませんでした。
「指揮官 これ以上は危険です」という声に、武夫は、短艇に飛び移った。その時、「指揮官がやられた」と叫んだ兵士の顔に鮮血を散らし船べりに一片の肉を残して、暗夜の荒海に消えていった。武夫の頭に巨弾が命中したのです。
当時の全国民は、七生報国一死心堅の時世を地で行った、部下思いの武夫に涙しない人はいませんでした。死後、全国各地から武人の誉れとして神社に祀る運動が起こり、兵学校の級友であった岡田啓介(首相)財部彪、竹下勇大将らと地元黒川建士ら百数名の発起によって昭和十年廣瀬神社が創建されました。この銅像は戦前山下公園にあった立像を大戦中に金属回収で供出する際、石膏で胸像部分を保管していたものを、戦後、市費で復元したものです。
廣瀬中佐像
明治37年(1904年)2月日露戦争・宣戦布告。旅順港に集結していたロシア艦隊の軍事行動を阻止するために、同港の狭隘な出入口を閉塞する作戦が決定をされた。同年2月24日広瀬武夫は第一次閉塞作戦で、「報国丸」に乗船出陣し、同船を旅順港灯台下に沈め、帰還する。3月20日第二次閉塞作戦で「福井丸」に乗船し出陣。3月27日任務を完了して撤退時、部下の杉野兵曹長の不明が判り船内捜索を3度行うが発見できず難船中に被弾し戦死する。
この作戦に使用された閉塞船「福井丸」の重しに積まれた石が、日露戦争後、日本海軍によって引き揚げられて廣瀬神社に奉納された。廣瀬神社では、昭和33年(1958年)5月社殿前の戦没者名碑建立の際に、台座にその石8個を嵌め込んだ。
昭和38年(1963年)秋山真之の銅像を建立する際に、廣瀬武夫と秋山真之の友情の証にと松山市の関係者から所望されて1個を贈った。その石は、松山市梅津寺公園の秋山真之の銅像の前に据えられている。
阿南惟幾像
阿南惟幾顕彰碑
阿南惟幾大将 年譜
明治二十年二月二十一日 出生 父阿南 尚(竹田市大字岩本)
三十二年(12歳) 徳島中学校へ入学 体躯鍛錬の為剣道、弓道、馬術を習う
三十三年九月1日(13歳)広島地方幼年学校入校
三十八年十一月二十五日(18歳)陸軍士官学校卒業(十八期生) 見習士官として歩兵第一連隊付となる
四十三年十二月二十七日(23歳) 中央幼年学校生徒監
大正四年十一月二十九日(28歳)陸軍大学校入校
五年一月二十六日(29歳)陸軍中将竹下平作次女綾子と結婚
八年四月十八日(32歳) 参謀本部勤務を命ぜられる
昭和三年八月十日(41歳) 歩兵第四十五連隊(鹿児島)留守隊長
四年八月一日(42歳) 補 侍従武官を命ぜられる
八年八月一日(46歳) 補 近衛歩兵第二連隊長
九年八月一日(47歳) 補 東京陸軍幼年学校長
十一年八月一日(49歳) 補 陸軍兵器本庁付兼陸軍兵務局長
十二年三月一日(50歳) 補 陸軍省人事局長
十三年十一月九日(51歳) 補 第一〇九師団長(山西省太原)
十四年十月十四日(52歳) 任 陸軍次官
十六年四月十七日(54歳) 補 第十一軍司令官(漢口)
十七年七月一日(55歳) 補 第二方面軍司令官(斉々吟爾)
十八年五月一日(56歳) 親任 陸軍大将
十月二十六日 第二方面軍南方移駐(ミンダナオ・セレベス島)
十一月二十日 二男惟晟少尉戦死
十九年十二月三十一日 補 陸軍航空総監兼軍事参議官陸軍航空本部長
二十年四月七日(58歳) 任 陸軍大臣
八月十五日 陸相仮官邸にて自刃
軍艦比叡マスト付属品
廣瀬中佐は兵学校卒業後、遠洋航海で初代比叡に乗艦した。二代目比叡は第二次大戦に活躍した艦で、昭和十三年マスト取り換えの際、海軍より下付された。左岩上に設置されていたが平成二十年老朽化の為解体。ワイヤーロープ、金具をここに保存した。
カッター前の丸木はマスト本体の一部である。
慰霊碑
昭和二十四年、当地方出身戦没者1449柱が合祀され、その十周年記念事業として同三十四年遺族会の発起で建立された。制作は郷土出身の彫刻界の大家、帝室技芸員故朝倉文夫翁の御厚意になるもので、碑面に大書された「慰霊」の二字は、特に翁が精魂を打ち込んで揮毫されたものである。碑に配置された五つの石は「仁、義、礼、智、信」の五字をかたどり裏面の大小の石は「忠、考」の二字をあらわし、翁が自ら厳選した秘蔵の岡山県産赤御影石を御寄贈されたものである。
巡洋艦比叡のマスト
中佐が兵学校卒業後初めて乗艦した艦である。二代目比叡は第二次大戦に活躍した艦で、昭和十三年マスト取替の際、中佐とのゆかりをもって海軍より奉納され、左の岩上に設置された。
昭和二十八年の台風で上部が破損し、昭和48年、地元海友会の発起により修理復元されたが老朽化の為、平成20年に解体し、その一部と金具を記念館のアサヒカッターの下に保存している。
拝殿
本殿
神社名 | 広瀬神社 |
住所 | 大分県竹田市竹田2020 |
TEL | 0974-62-3074 |
御祭神 | 広瀬武夫中佐、戦没者1627柱 |
創建年 | 1935年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 |