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【山口県下関市】生野神社

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山口県下関市鎮座の生野神社
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当神社拝殿は明治初期、風雨にて壊れた社殿を明治七年に百戸余りの僅かな氏子にて再建する。古来の素朴な氏神様の社殿を今に伝う。社殿内天井には三十六枚の天井画、花鳥画が鮮明に描かれている。(奥本殿は江戸後期作)大切な地域の文化財である。
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幡生(旧生野村)の火山伝説と溶岩

往古、此の地に火山の噴火が有ったと伝わる。(ペディオニーテ火山)

大正五年(1916)椋野に火山弾の集積が発見され、一里山(石神)から戦場ヶ原(忠霊塔)にかけて、溶岩質の玄武岩地層が確認され、昭和四十六年(1971)戦場ヶ原公園造成の際、玄武岩層を発見。新聞報道された。神社伝説に、響灘に浮かぶ六連島は、昔この幡生に有りて、火山噴火にて地割れが生じ、海上に流れ出し、蟹の霊がハサミ止めて島が出来たと云う。

その縁にて当神社の氏子であったが、明和四年(1767)当神社よりご分神を祀る六連八幡宮である。その頃、島より擁壁の石等持ち込まれ、此の玄武岩(溶岩)も一緒に持ち込まれたと伝わる。

(六連島の雲母玄武岩・・国の特別天然記念物
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溶岩
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正一位白瀧稲荷大明神

 

古くより此の宮山に鎮座あるも、一時崇敬者なく、お社も荒れ果て大東亜戦争終りて、昭和二十二年後半、稲荷神社の復興を願い福永家中心となりて有志を募り、崇敬者としてお社を祀るが今の稲荷神社である。お社は諏訪正春作にて、外屋は杉本忠夫寄進す。

初午祭は崇敬者参列のもと、大変な賑わいとなり、現在に於いても生野白瀧稲荷会の名称を以ちて行われている。

稲荷の利益(福徳開運十種の神)

  1. 無尽の福 2、衆人愛敬の福 3、大繁盛の福 4、長寿の福 5、千客万来の福

6、武運長久の福 7、田畑の福 8、養蚕の福 9、善智識の福 10、金銀財宝の福
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正一位白瀧稲荷大明神
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豊臣秀吉御手植松

 文禄元年(1592)に始まった文禄の役の時、豊臣秀吉が海難を避けてこの地に旅営した際、幡生八幡宮にて戦勝祈願をし、松の木八本を、神殿の両側に一本あて、石段の両側に二本あて手植えされたという伝承がある。

 そのうちの一本だけが長く残っていたが、樹根が裂けて枯れたため、大正六年(1917)二月に十五日県知事 林市蔵へ伐採を申請し、同年三月三日、許可があり、写真におさめて伐採した。その写真は生野神社に保存されている。

 この意義あるお手植松を顕彰し、末永く故郷の遺産とするため、千方土地有限会社はこの記念碑を建設した。
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豊臣秀吉御手植松
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古代予想図
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幡生古代地図

 

 古代の旧生野村地域の地形は入海で、幡生湾となっていたようである。神功皇后の舟出による幡生名由来の伝承や、岩瀬・汐入・馬渡り等の地名があることは、その裏づけと考えられる。港湾として暴風時に舟溜まりとなり、交通の要衝であったと考えられ、また付近の古墳の存在は、豪族のいたことを意味し、古代の幡生は重要な集落であったと想像される。

 海岸線は時期により変化を繰り返していたと思われるので、特定できないが、この地図は、千方土地有限会社編纂の「ふるさと生野史」掲載、標高10m線の推測図を参考に作成したものであり、当時の海面が想像できる。下関発展のルーツである古代の幡生を偲び、今後の故郷発展を図るための一石となれば幸である。
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勾玉像

明治四十二年、当神社宮山古墳(旧市内唯一の前方後円墳、市指定文化財)より出土。この貴重なる勾玉を神社のシンボルとして碑を建立する。
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子守り女石(家内安全守護)

子供を育て、安らぎの有る家庭を築き、将来の国の発展の為、皆んなで子供を守って下さい。子供を大切に子孫繁栄、周りの石は大人、中の石は子供等、大人が囲み、子どもを守るサークルストーンです。

尚、この生野神社地は弥生時代前期、紀元前三百年前より人が住み、生活や古代祭祀も行われたと思われ、弥生時代古墳時代(大和)、平安時代、江戸時代と現在に伝わっている神社です。
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子守り女石
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人丸神社(御祭神 柿本人麻呂

歌道を始め学問、農業、殖産、又、眼病治癒の神と云われる平安時代からは「人丸」と表記されること多く、人丸は「火止まる→防火の神、人産まる→安産の神と解し、篤く崇められている。全国約250社、県内190社余り鎮座する。昔より、後田の里にて信仰篤く、明治四十三年(1910)此の地に移築され現在に至る。
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人丸神社
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フクロウ

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梟(フクロウ)は、世界中の人々より可愛がられ珍重されている鳥です。当て字も色々あり、福郎、不苦労、福老、福来等々・・福を呼び幸運を運ぶ鳥。毎夜神社で鳴いています。

フクロウは夜でも目がよく見える。世の中を広く見渡せる。また、色々なものがよく見える・・と。

フクロウは首が360度回ることから、金回りが良い。商売繫盛、金運上昇になるといわれています。

世の中も豊(ホー)に、家庭、家族も皆豊(ホー)、我が身心も豊(ホー)に生野。

フクロウの頭をホーホーホーと三回撫でて三度唱え三豊願い。

 

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生野神社(旧幡生八幡宮

文禄の役、豊太閤御手植松記念碑

 

文禄元年(1592年)豊臣秀吉朝鮮出兵に当り、松の木八本を手植し戦勝祈願をした故事により、千方土地有限会社記念碑を設ける。七本は江戸期に枯れ、一本のみ残ったが、枯死した。落雷、倒木等、危険な為、大正六年(1917年)山口県知事申請、許可を以って伐採する。当村、岡田新槌、その松皮を額縁に納め奉納する。(拝殿内正面、松皮額)

尚、石碑正面の陶板写真は伐採前の姿である。(大正六年撮影)石碑の円形台座は、目通り高さの幹の大きさを表す、1m47cm、樹高、35m
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生野神社(旧、幡生八幡宮)御由緒

 

御由緒

第五十六代清和天皇貞観二年(千百数十年前)九月の創祀、当時京都大安寺の僧行教天皇の勅命を受け、九州宇佐八幡宮に趣き、八幡宮の御分神を奉戴して、京都男山(今の石清水八幡宮)に帰る途中、当地が清地であり又、神功皇后つかりの地であることから、ここに仮泊し、御分神を奉祀したと伝えられる。又、古来武将の崇敬も篤く、文禄元年豊臣秀吉、朝鮮の役に出陣の際、松の木を八本手植し戦勝を祈願したと云う(落雷の為、大正六年県知事認可の上、処分、拝殿正面の奉納額、松皮はその一部である)。昔はこの附近数ヶ村の総氏神として、地方人の崇敬は篤かった、響灘に浮かぶ六連島も古くはこの神社の氏子であったが海上遠い為、明和四年二月、この神社より御分神を勧請して六連島八幡宮を建立した。

 

伝説

往時、この宮山附近一帯は入海にして天然の良港であった。神功皇后三韓の役の際ここで最初の軍船を揃え、船出された。その時、軍船に仕立てた数百流の旗(幡)が、一夜にして生れ、生え出たように見えたので「幡生」の地名が出来たと伝わる。

 

宮の山古墳

当神社神域には14~500年前と推定される、下関市指定文化財前方後円墳が保存されている。尚、神社林は、下関市環境保存条例により指定された保存樹林である。

 

氏子区域

明治四年、是松八幡宮、同四十三年、後田、藤ヶ谷、両八幡宮、武久宗像神社を合併、現在幡生、後田、石神、藤ヶ谷、武久、山の田、大学、生野、宝、権現等各町全域が氏子杭域である。

 

神社名改名

昭和二十年旧生野村名並に往時の生野村総社の存名を以って幡生八幡宮を生野神社に改名する。
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拝殿
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本殿

 

神社名 生野神社
住所 山口県下関市大字幡生宮の下町16−番18号
TEL 083-252-1568
御祭神 応神天皇仲哀天皇神功皇后宗像三女神(多紀里比売命、寸嶋比売命)、■都波能売神
創建年 861年
社格  
建築様式  
駐車場 有 
御朱印