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【大分県竹田市】扇森稲荷神社

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大分県竹田市鎮座の扇森稲荷神社

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扇森稲荷神社の社号が生まれたところ

 十二代藩主中川久昭公は江戸城登城の前夜、枕辺に立った神霊「狐頭源大夫」のお告げにより刺客から身を守ることができました。そのお礼に参拝した折この地に立ち「岡ー肥後街道(国道57号線)」が稲荷神社の森を要とし扇の開いた如く神社を取り巻く景色を眺め「扇の森稲荷神社」の社号を奉納したと伝えられています。眼下に広がる扇状の風景がまさにいわれのままです。


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拝殿
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本殿

 

神社名 扇森稲荷神社
住所 大分県竹田市拝田原811
TEL 0974-63-1588
御祭神  
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印  

【大分県竹田市】岡神社

大分県竹田市鎮座の岡神社

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本社は元岡城北尾にあり愛宕神社と称せり、元和戊午四年(紀元2278年)城主中川内膳正久盛山城国愛宕神社の御分霊を勧請し城北守護の神として鎮祭せしを明治四十一年五月五日今の社地に遷祀し附近の数社を合祀して岡神社と称したるなり、神殿は江戸時代建築の大なる特徴を有し、その美的価値は對丘の愛染堂と比肩すべくこれを中央の社寺建築に對比して■末の遜色をも認めざるものなるが如し


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時鐘記

此之地を弥五兵衛阪と称せり延宝三年(西暦1675)十月岡藩主中川四代久恒公此処に鐘楼を設けて此の鐘を備えて書夜十二刻を奉じ併せて非常の戒とせり爾来春風秋雨二百五十余年に亘り鐘聲の絶える事なく嫋々たる余韻を詩の城下に響かしめたり、鐘銘に曰く享保甲辰九歳二月六日鋳物師京堀河住嶋馬筑後大録藤原氏重常味

昭和十年廣瀬神社創建に依り弥五兵衛阪の旧態を失うに至れり以後中川公縁りの当神社所管となる


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時鐘記
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拝殿

神社名 岡神社
住所 大分県竹田市竹田2627−1
TEL  
御祭神 加具土命、伊邪那岐神伊邪那美神、豊玉珠屋神、彦挟乳之神、少彦名大神大国主神大物主大神正一位稲荷大神崇徳天皇、善神王様、藤原清正朝臣菅原道真朝臣、事代主大神
創建年 1619年
社格 郷社
建築様式  
駐車場
御朱印  

 

【大分県臼杵市】八坂神社

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大分県臼杵市鎮座の八坂神社
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本神社は昔奥州磐前(福島県いわき市)鶴ヶ峰にお祀りしておりましたが、源義家公の清原討伐(後三年の役)の戦乱を避けるため船により安芸国尾道を経て臼杵庄洲崎岩ケ鼻に着岸し、神ノ木原に鎮座されました。後、臼杵の総鎮守として広く崇敬されておりましたが、大友宗麟公がキリスト教に帰依して領内の社寺焼討を行ったとき、その難を避け御神体を田町見星寺裏の岩窟、海添の岩窟(現在御旅所)津久見の八戸、後には日向の飫肥に御遷座申し上げておりました。大友氏改易の後、臼杵城主太田一吉公の命により、丹生嶋城三ノ丸廊内(現在地)に社殿を造営して御遷座。現在に至っております。太田氏の後臼杵城主となった稲葉氏も代々崇敬の念厚く神殿・拝殿の造修、神幸祭の創始とそれに伴う御旅所の造営、御輿ほか各種御道具の寄進ありました。明治維新後は社名を「祇園宮」から「八坂神社」に改めましたが、現在、「祇園様」と呼ばれて市民に親しまれております。

 

略年表

天延元年(972)藤原道兼公奥州磐前鶴ヶ峰に祇園三所天王を勧請

永保三年(1083)後三年の役の難を避け御動座

承徳元年(1097)六月十五日、臼杵に着岸、神ノ木原に鎮斎

天正十一年(1583)大友宗麟公の社寺焼討の難を避け御動座

慶長三年(1598)太田一吉公、現在地に社殿を造営し御動座

慶長十六年(1611)稲葉典通公、神殿・拝殿を造営

寛永十九年(1642)稲葉信通公、御旅所を造営

明和七年(1770)三月二十二日、祇園宮炎上、高見寺より出火

明和七年(1770)五月仮社殿上棟遷宮

安永五年(1776)六月三日現社殿竣工(大工棟梁、山崎平内重矩・宇野庄衛門吉矩)

文化八年(1811)神殿の瓦を銅板に葺き替える

天保六年(1823)五月二十五日、稲葉幾通公、現旅所社殿改築竣工

明治四年(1871)社名を「八坂神社」に改称、丹生嶋明神を臼杵城より合祀

大正十三年(1924)六月、県社に昇格

昭和二十三年(1948)神殿の改修、拝殿の新築、神楽殿の移築を行う

昭和三十年(1955)菅原神を稲葉家より合祀

昭和三十五年(1960)摂社改築

平成七年三月十日(1995)大分県有形文化財指定 本殿 一棟


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拝殿
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本殿

 

神社名 八坂神社
住所 大分県臼杵市臼杵1−番地
TEL 0972-62-3673
御祭神 建速須佐之男神、奇稲田■神、大国主神、丹生嶋明神、菅原神、事代主神
創建年 972年
社格 県社
建築様式  
駐車場
御朱印  

【大分県臼杵市】臼杵城

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大分県臼杵市臼杵城
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稲葉氏の城郭改修

帯曲輪

 大友氏時代から太田時代(1556-1600)にかけて、臼杵城二之丸、本丸に入るには、城下町に面した入口から鐙阪を通り現在の弓道場の横を抜けて城の東部にある空堀にたどりつき、そこから上がるという大変遠回りをするコースをたどっていました。

 稲葉氏の入城直後、町場に近い位置に登城口があるのは防衛上不安があったためか、新たに三之丸のやや奥まった部分に登城口を設け二之丸へと上がる間に中之門、上之門と呼ばれる門と枡形を造るという守りの堅い城内通路が整備されました。これによって旧来の道は上之門を境に2つに分断され、畳櫓から上之門に至る空間は帯のように細長いものであることから帯曲輪と呼ばれるようになりました。

 また、この新しい登城口を今橋口、それ以前の鐙阪の登城口は古橋口と呼ぶようになったのもこの頃からです。

 

畳櫓

 畳櫓は、桁行4間(7.92m)、梁行3間(4.44m)の2階建て、入母屋造りの屋根を持つ櫓です。この櫓は正保年間(1644~1648年)頃に建てられたのが始まりのようです。宝暦13年(1763年)の大火で焼失しましたが、その再建は明和年間(1764~1772年)頃ではないかと推定されます。

 「畳櫓」という名称については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたからという説等がありますが、はっきりした由来は不明です。


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大分県指定史跡 臼杵城

 臼杵城は弘治2年(1556年)、大友義鎮(宗麟)によって建てられた城です。臼杵城が築かれた丹生島は、文字通り元々は臼杵湾に浮かぶ島でした。守りの堅いその地の利を生かして、この地を城郭にしたと考えられます。

 大友氏改易後は、福原直高、太田一吉と城主が替わり、慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦後、稲葉氏が臼杵藩五万石余の主として、臼杵城に入ります。以後、明治維新まで臼杵藩は稲葉氏によって支配されました。

 その後、明治新政府の廃城決定により卯寅口門脇櫓、畳櫓の建物はすべて破壊され、公開化されました。

現在は臼杵の歴史のシンボルとして、皆さんに親しまれています。


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遺跡名 臼杵城
住所 大分県臼杵市臼杵丹生島
TEL  
年代 1556~
指定区分 県指定史跡
駐車場

 

【大分県臼杵市】臼杵護国神社

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大分県臼杵市鎮座の臼杵護国神社
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臼杵護国神社は明治十一年創立の招魂社(昭和十四年四月一日臼杵護国神社となるが、終戦後は招魂社と称した)を明治十二年創立の稲葉神社に昭和三十五年合併、稲葉神社を臼杵護国神社と名称を変更した。旧招魂社は、明治十年西南の役で薩摩軍が臼杵に侵入した時、旧臼杵藩士の日下東命等らが、臼杵隊を組織して防戦したが遂に破れ四十三名の戦死者を出した。明治十一年六月有志が戦死者の霊を祀るため、臼杵城趾に一社を創建した。以後、臼杵町に本籍がある者、或いは縁故がある者で、戦時又は事変で戦死し、靖国神社に奉斎された者すべてを合祀した。又市制施行により合併した旧六カ村の戦没者も合祀した。

旧稲葉神社は稲葉家の旧臣が、臼杵藩稲葉良通公(一鉄)と歴代藩主の霊を祭祀するため建てられた。明治十二年十一月五日勘請式を行い、稲葉神社と公称した。

 

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木梨鷹一海軍少将の戦死

 鷹一は、明治三十五年三月七日臼杵町野田753番地で生誕した。大正九年臼杵中学から、当時受験競争率最高三十倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵五十一期生)、大正十二年卒業。昭和五年航海学校航海学生(大尉)となり同六年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同十二年十一月海軍少佐となり、同十五年三月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。

 太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号十九潜水艦長として、昭和十七年九月十五日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷六本を発射うち五本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ駆逐艦オブライエンを大破させた。

 昭和十八年十一月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を受け、昭和十九年三月十一日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受け取った。その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。

 八十七日を経て、七月十二日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、厳谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。七月二十六日にバシー海峡で未潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。

 この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年四十三歳。


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大東亜戦争第二次世界大戦

馬締安正命

 馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チヨの三男として臼杵市大字戸室に出生。市浜尋常小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引き続き熊谷陸軍飛行学校第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。

 昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において米艦船群に体当たり攻撃敢行戦死を遂げる。同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。

遺書

実夫馬締兵市様

 皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。ご健康をお祈りします。

 

実兄馬締中尉殿

 弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたします。兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のところに行きます。


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砲弾記念碑

明治二十八年九月十七日

敬献 海軍中将軍医総監 河村豊州

 

臼杵藩士として代々医療を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(1849)1月26日生まる。

荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋楽を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。

 

明治八年 海軍中軍医となる

明治十年 西南戦役に功あり海軍大軍医となり勲五等を受く

明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる

明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く

明治三十八年 功四級金鶏勲章を賜り九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する(現在の砲弾は実物大レプリカ)

明治三十五年 従四位高等官一等に叙せられ予備役となる

退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り、北海道開拓に尽力する

昭和八年(1933)十一月八日八十五才にて永眠

青山墓地に眠る


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御神池

 

神社名 臼杵護国神社
住所 大分県臼杵市臼杵7582
TEL  
御祭神 稲葉良通ならびに歴代藩主と国家公共につくした人の神霊
創建年 1878年
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印  

【福岡県飯塚市】三井寺

福岡県飯塚市三井寺

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ガッツポーズ地蔵
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ロンプク敦でロンブー敦命名のチョリース地蔵
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敦と中上真亜子のサイン
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境内には多くの地蔵が安置されている

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寺名 三井寺
住所 福岡県田川市伊田2706−1 三井寺
TEL 0947-42-7206
本尊  
創建年  
駐車場
備考  

【宮崎県日南市】榎原神社

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宮崎県日南市鎮座の榎原神社
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榎原神社楼門(県指定有形文化財

 この楼門は、1816(文化十三)年に神社境内と門前町を結ぶ位置に建立された。

 構造は、楼門づくりという木造二階建で、高さ約11m、横幅約7m、奥行約4mで、一階の上に高欄の回廊を巡らせている。正面が三間からなり、中央が参詣者用の通用門(一戸)、両側二間にそれぞれ仁王像を、その上に随神像を安置して、八本の柱脚で建っていることから三間一戸八脚門という。

 楼門の特徴としては、柱上にだけ二手先出組を置き、二階の軒に隅木を配して垂木を並べ、その本数で柱間を決める和様式と、礎石と柱の間に礎盤を置き、柱上に台輪を置いてその上に組み物を置くことや、垂木を扇形に配するなどの禅宗様式と、流派的な折衷様式が用いられていることである。

 このような建築様式は、古く神仏習合を物語る歴史上の貴重な文化財として、極めて価値の高いものである。さらに地場産の飫肥杉を柱等の材料とし、礎石や礎盤に榎原石と呼ばれる凝灰岩を加工して造る等、地方的特色が顕著であることからも、県下に類例のない古楼門である。


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楼門
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仁王像
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仁王像
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榎原神社鐘楼(県指定有形文化財

 榎原神社は江戸時代初期万治元年(1658年)第三代飫肥藩主伊藤祐久公が、鵜戸神宮の神霊を勧請し藩内の鎮守として創建したもので、榎原山大権現と称され、歴代藩主の崇敬も厚く社殿神領の寄進を受けていた。当社は、神殿を中心に鐘楼・楼門などが残されているが、鐘楼は造形的にもこの神社の建造物の中では最も勝れており、県内でも数少ない貴重な遺構である。

 鐘楼は高さ11・41mで、細部(組物・蟇股・木鼻)の造りも入念な仕上げがされており、上蔀の鐘楼部の躍動感と、下部の黒板張りの袴腰の安定感とが好対照をみせている。


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鐘楼

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榎原神社御本殿(県指定有形文化財

 本社は、当時神女として崇められていた内田万寿姫の進言によって、飫肥三代藩主伊藤祐久公が万治元年(1658年)十二月二十三日、鵜戸神宮より勧請されたものである。(摂社桜井神社は内田万寿姫を祀る)

 現在の社殿は、宝永四年(1707年)に建てられ、当初は八幡造りであったものが寛政十年(1798年)当時流行していた権現造りに改造されたものと思われる。拝殿を入母屋屋根とし正面に千鳥破風、その前面の向拝に、唐破風を設けた。拝殿・相の間・神殿をつなぐ平面は八幡造りのままであるが、正面の姿は権現造りである。しかし従来から関係者は、屋根の複雑さから、八ツ棟造りと呼びならわしている。県下には、唯一の貴重な有形文化財である。


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本殿
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御神木

 

神社名 榎原神社
住所 宮崎県日南市南郷町榎原甲1134−4
TEL 0987-68-1028
御祭神 天照大御神天忍穂耳命彦火瓊瓊杵命、彦火々出見命、鵜茅葺不合命、神日本磐余彦命
創建年 1658年
社格  
建築様式 権現造り(八ツ棟造り)
駐車場
御朱印