【福岡市東区】大神神社
御由緒
神功皇后御征韓の節、大和の将兵此の地に駐屯の折勧請したるものと伝う。
立花成就は守護神として特に崇敬厚かりし、永禄十年九月八日、宗像大宮司氏貞 許斐左馬大夫氏備の軍勢 上和白村に乱入して民家を焼き払う。立花城代怒留湯入道馳せ向かって応戦奮闘双方討死の侍雑兵共弐百余、黄昏に及んで敵は許斐岳指して引揚げたれば其の夜は陣取って夜警し翌九日立花城へ勇ましく凱陣す。城主立花道雪公より燈明田弐反八畝拾歩御寄付ありたり。近くに陣畑陣作などいう処あり
御神徳
祭神 大物主神は大國主命(大黒様福の神)として広く民間に親しまれたる神様にして、吾々祖先代々その御神徳を仰いで安穏和楽の生活を伝え来る。然るに戦後精神生活低下し道義将に地に堕ちんとす。此の時吾々は愈々神域を浄化し社殿を整備し祭祀を厳修して御神徳を宣揚せんとす
神域
始め境内は二九一壺なりしか明治四十一年国有林300坪払下げ更に隣接地を入手し社有地総面積6799㎡(約2056坪)あり
社殿
古来度々再建又は修理して今日に及びしが、昭和39年拝殿東側に埋立工事を施工し鉄筋コンクリート流れ造瓦葺神殿1・5坪、中殿25坪、渡殿5坪 内陣其の他、施設祭具等氏子崇敬者の寄進により殆ど完備す。翌四十年四月十八日 厳粛且盛大に御遷宮奉祝を執り行いたり
底樋(ため池の水を放流するための管)の「いわれ」
この木製の底樋は、平成十四年(2002年)十月 福岡カンツリー俱楽部ゴルフ場内にある農業用水を貯留する高藤下池の改修工事で取り替えた一部分です。
和白郷土史研究会の資料(和白村の歴史)によると、高藤下池は、今から三百二十一年前の天和元年(1681年)に築造された灌漑面積十二町余(約十二ヘクタール)の用水を確保して上和白の農業を守ってかた「ため池」です。
この木製底樋は、樹齢約七十年の松の原木を縦に割り、必要な通水断面を箱状にくり抜き、替折釘(和釘の一種)を用し元の丸太に組み合わせた構造です。
当時は、堤防の土圧に耐えうる鉄筋コンクリート製のパイプ等はなく。私たち先人の底樋製作技術に対する工夫の「ため池」の大切さを子供たちに知ってもらう為、大神神社の境内に展示保存するものであります。
参籠殿新築記念碑
昭和三十九年十二月 御神殿 中殿 渡殿を拝殿の東側に移転新築し、翌昭和四十年春盛大且厳粛裡に御遷座祭を挙行の処、日ならずして団地造成計画のため、神域の一大整備の必要に迫られ祖先伝来約二百年の長きに亘り日籠の場所として参りました拝殿の位置に新拝殿を配し、旧来からの拝殿を昭和五十一年現在地に移築し、絵馬堂と称し乍らも日籠の場所にして参りました。
爾来十数年の今日、白蟻の侵害の結果、建物の老朽化が進み、止む無く慎重審議の後、氏子の浄財を以て之が再建を計ることとなり、平成二年解体の処、幸いにも
奉再建大神社拝殿 壱宇 棟行七間四尺規瓦葺(明治十二年十月吉日)の棟札を入手
想えば明治維新以来十余年の間に、徴兵令、租税などの大改正に物情誠に騒然、御先祖の方々の中にも、筑前竹槍一揆、西南の役にも参加された由、誠に大変だったと推察される裡にそれにもめげず、ひたすらに敬神崇祖の念に燃えて、新規に瓦葺の拝殿にと大改築をされたことが棟札により伺われ、心から崇敬と感謝の意を表する次第であります。
今秋、天皇陛下の御即位の式典が挙行されるよき年に当り、氏子一同、御先祖の意を身体し、茲に浄財を献し、農耕の神、貴船神社をも前の位置に移築し、且、格子窓、平家建、18.5坪の建物に「参籠殿」と名付け、大御神の心のままに清く正しくありたしと念じ、茲に氏子126の名を刻し、謹んで大前に奉る
参籠殿
拝殿
本殿
【東京都千代田区】東京大神宮
東京都千代田区鎮座の東京大神宮
明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年二創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは、飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。
「東京のお伊勢様」と称えられ親しまれているのは、伊勢両宮(内宮、外宮)のご祭神である天照大御神(日本国民全ての祖神)と豊受大神(農業 諸産業の守護神)のご分霊を奉斎していることによります。
また、日本で最初の神前結婚式を執り行ったことで有名な当社では、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから、近年縁結びに御利益のある神社としても知られ良縁を願う人々のご参拝も年々多くなっています。
拝殿
神社名 | 東京大神宮 |
住所 | 東京都千代田区富士見2丁目4−1 |
TEL | 03-3262-3566 |
御祭神 | 天照大御神、豊受大神、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、倭比売命 |
創建年 | 1880年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | |
御朱印 |
【福岡県久山町】斎宮
福岡県久山町の斎宮
当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、神教を祈願された霊蹤の地であり、つぎのような由来を伝えている。
第十四代仲哀天皇は、仲哀八年己卯の春、神功皇后と御一緒に熊襲征伐のため、筑紫の香椎宮に行幸啓された。そのとき皇后に熊襲の服せざるは新羅の後援なれば本幹たる新羅を攻め給わば、支葉の熊襲はみずから枯れん」という神のおつげがあった。しかし、仲哀天皇は神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、失敗されて香椎宮に帰られ、翌年十二月病気で崩御された。
皇后は非常にお嘆きになったが、密かに御屍を納めになり、喪をかくして賊徒征伐の業をお継ぎになった。
そうして、香椎宮から群臣百僚を率いて小山田邑(上山田)に行啓され、御住居になったところが、聖母屋敷で、聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、皇后みづから神主となり、六所神を祀り、三月朔日から七日七夜戦勝の祈願をなされた。神々の御加護により国内も治まり、三韓も戦わずして平定された。
皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は慶長年中大洪水で破損したので、村民は非常に恐懼して聖母屋敷に合祀した。この社の跡を「ろくしゅう」と言って六所田(神田)の中に今も社跡が残されている。
なお、境外神社として審神者神社があるが、祭神は中臣鳥賊津使「日本書紀」の神功皇后の祈願に際して中臣鳥賊津神使を喚して審神者とす、とある。審神者とは神の託宣を請うて、その意を伝える人である。
この社は、慶長三年まで六所の社殿のあった六所神と向かいあい両社の間に建造物を禁止されたいたという言い伝えがある。また、一般に「おやしろさま」と呼び勝買の神様とされている。
これらを総合して考えてみると二千余年の古宮跡はそれぞれしっかりと上山田の地に刻まれて、神功皇后の御偉業とともに千古に朽ちないこと物語っている。
この由来記の裏面に斎宮に係わりのある上山田邑の古図も掲載しているので参照されたい。
神功皇后は『古事記』『日本書紀』に登場し、日本史上はじめて朝鮮半島へ出兵したと伝えられる人物です。『日本書紀』巻第九神功皇后(気長足姫尊)の章には、夫である仲哀天皇がお亡くなりになられた香椎宮、応神天皇をお産みになられた宇美八幡宮とともに斎宮のことが記されています。
『日本書紀』によると神功皇后は仲哀天皇が香椎でお亡くなりになると小山田邑に斎宮を造らせ、自ら神主となられています。この斎宮の故地について、江戸時代の学者貝原益軒が『筑前国続風土記』のなかで次のように述べています。
「聖母屋敷 上山田村にあり。其所に神功皇后の御社あり。是 神功皇后斎宮の跡なるにや」「此山田村は、香椎に近ければ、此村にある聖母屋敷こそ、まさしき斎宮の跡には侍るへき」
ここ山田の地に鎮座する斎宮は、日本最古の国史に記載された「小山田邑 斎宮」の此定地とされる神社です。千数百年の間、人々に深く信仰され大切に守られてきました。
町内には、六所宮跡や審神者神社など神功皇后にゆかりの深い神社や、神功皇后を描いた絵馬などが多く残っています。
拝殿
本殿
審神者神社
「日本書紀」の神功皇后紀には「皇后の祈願に際して中臣鳥賊津使主を喚して審神者とす」とあります。審神者とは神の神託を受けて、その意を伝える人のことです。中臣鳥賊津使主をお祀りしているため審神者神社の名がついています。おやしろさまとよばれています。
この神社は、慶長三年(1598)まで六所に社殿のあった六所大明神と向かいあっていました。両者の間に建物を建てることが禁じられていたと伝えられ、その言い伝えは現在も守られています。
審神者神社
六所宮跡
六所宮は慶長年間(16世紀末)までこの地に鎮座し立派な社殿があったと伝えられています。『筑前国続風土記拾遺」によると祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・速玉男命・豊受大神・■々杵尊・軻遇槌命。現在、六所宮は六所大明神として斎宮の境内に祀られています。斎宮に移された理由としては、天正年間に兵火に焼かれたからだとも、川のそばに立地し、洪水の心配があったからだともいわれています。六所宮が移された後、この地は神田とされ今でも六所という地名が残っています。
江戸時代、黒田家は天照皇大神宮(伊野皇大神宮)を内宮と呼び、豊受大神を祀った六所宮を外宮として尊びました。六代藩主黒田継高の時には、田虫除として粕屋郡に一本だけ下賜された伊勢御田扇が納められ、今も斎宮に大切に保管されています。
六所宮跡
【福岡県久山町】若宮八幡宮
福岡県久山町の若宮八幡宮
当宮はその昔、現在地の南三百米に在り、天正十四年薩摩の島津家久が立花城攻略の時焼失した。慶長五年宮林の地に再建し、集落の移転と供に慶長十五年宮林より鳥越の現在地に移転す。
当時山田の村は、猪野川の流域(字古村)に在り洪水毎に人家流出する大災を蒙るため、時の庄屋(安河内五郎左衛門)深く之を憂い官に許を乞い、現在の下山田と、上山田の地に集落を移す大業を成し遂げる。
旧本殿棟札記録に由れば、宝永四年(西暦1707年)宝殿造営と在り、旧社殿は二百八十年の歳月を経る。
明治五年十一月三日、村社被定。須佐之男命と稲田姫神は境内に須賀神社として、保食神は同岩嶽神社として、同境内に、軻遇鎚神は岩戸原尾崎に愛宕神社として、菅原神は岩戸原天神に菅原神社としてそれぞれ祭祀在りしを、明治四十四年九月九日、現在の若宮八幡宮に合祀されたのである。
亦大山積神は字大谷に在りしを昭和五年石祠と共に同境内に移し別に之を祭祀す。昭和十一年神殿、拝殿を全面改築し、更に同三十八年石段、参道等境内整備が行われた。
昭和二十六年宗教法人法公布により同二十七年、宗教法人若宮八幡宮を設立認可さる。昭和六十一年若宮八幡宮の式年遷宮、並びに天皇在位六十年奉祝記念を迎えるに当り地元財産組合を始め、氏子有志多数より巨額の出資を受け、之を契機として御神殿を始め境内造物を悉く改築し、其の完成を待って同年五月大祭を執行す。
若宮八幡宮古宮跡
ここは現在宮山にある若宮八幡宮の跡地で、お宮はかつてこの宮林にありました。天正十四年(1586)戦禍にあい、慶長五年(1600)若宮八幡宮は宮山に遷されました。その後もこの地に対する信仰が残り、八幡神社が祀られました。明治四十四年(1911)八幡神社も若宮八幡宮に合祀され、現在は若宮八幡宮のお旅所となっています。
またこの古宮跡は天正年間(1573~1592)まで現在の上山田にある斎宮のお旅所で、社地内には地神社・竈門神社もあったそうです。
*お旅所とは神社の祭礼の時、神様を神輿に乗せて巡り歩く際に、途中でお休みする場所のことです。
若宮八幡宮旧宮跡
山神社
御祭神 大山祇神
御由緒 当社は字大谷に祭祀されていたが昭和五年、石祠ともに当宮境内へ遷座し祀る
御祭神 猿田彦神
御由緒 大正九年八月二十七日建立勧請す
大山祇神は山の神であるが、山から流れ出る水は田を潤し五穀を育むので農耕の神としても崇められている。また猿田彦神は、導きの神として道標的な役割で多くは祀られているが、神裔である大田命と同一視され豊作豊穣を司る神としても信仰されている。
右両御祭神は若宮八幡宮拝殿西側に祀られていたが、平成二十三年の式年遷宮の事業として此処に新たに宮地を整え遷座し祀る。
山神社と猿田彦大神
若宮八幡宮裏古墳
若宮八幡宮裏古墳は直径約8mの円墳です。墳丘の一部は削られています。石室は横穴式石室で6世紀から7世紀頃のものと思われます。山田地区で墳丘が残っている唯一の古墳です。
古墳は丘陵の端部に位置しています。現在は1基のみが保存されていますが、この時期の古墳は群集墳といわれ、数基から数十基の古墳がまとまってつくられることから周辺にも古墳があったものと考えられます。
丘陵の南側には多々良川の支流である猪野川が平野を形成しています。平野部の発掘調査では弥生時代から平安時代にかけての住居跡などがみつかっており、集落が営まれていたことがわかっています。古墳はこの付近を治めていた人々のお墓であったと思われます。
若宮八幡宮裏古墳
拝殿
本殿
神社名 | 若宮八幡宮 |
住所 | 福岡県糟屋郡久山町大字山田1863 |
TEL | |
御祭神 | 応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、須佐之男命、稲田姫神、保食神、軻遇槌神、菅原神 |
創建年 | |
社格 | 村社 |
建築様式 | |
駐車場 | 無 |
御朱印 |
【福岡県飯塚市】八幡宮
(聖光上人伝)によれば、聖光上人は、建久五年(西暦1194年)明星寺五重の塔を再興の為に、大日寺山に入り、多数の人々の手で、大木を伐らせました。その時、ある大木を伐ったところ、その木の皮の下に文字が書いてありました。
その文字は
伊奈波 知和也不留 加美乃 伊我幾登 奈留曽宇礼之幾
(稲は、神様のお供物として捧げられるのが嬉しいように、木材も仏様の御堂となるのを喜んでおります)
村人たちは、この和字を見て、怪しみもせずに、なる程と思いました。というのは、村の古老が代々伝えきいた話があったからです。
昔、因幡大夫という人が居られました。(宗像大社の大宮司の孫ということです)
平々凡々と毎日を暮らしている事に疑問を感じ、世の為、人の為になる事はないかと思い明星寺に正月一日より七日迄の七日間、おこもりをして、毎日三千賛百三十三回の礼拝をして修行に励まれました。満願の八日の朝になって、虚空蔵菩薩より、一尺二寸(約36㎝)の稲穂を戴き、喜び勇んで稲穂を抱いて、明星寺をあとにしました。
その日は、色々と所用があって、遅くなり、日も暮れかけて到底家に帰りつく事は出来そうになかったので、仕方なく途中の大日寺で、一軒の民家に宿を乞い泊めてもらいました。
ところが、その夜、民家の老主人が「私には、娘がおりますが、とても器量良しでございます。是非、あなたと夫婦になってもらえれば有難いと思います」と話をしたところ、大夫も快く承諾されて目出度く夫婦となりました。
それから後は、夫婦で明星寺の虚空蔵菩薩から貰った稲穂を種にして、春に田を播き、秋には収穫して数年もたつと忽ち有福の身になりました。
また、同時に村の人々にも種を分け与え、大日寺村は云うに及ばず、国中大いに繁栄したという事であります。
二月一日、大夫は端座念仏眠るが如く往生されました。
村人たちは、皆、大日寺山の大木を伐った時のあの文字は、昔の大夫の事をいっているのではなかろうか、そして、聖光上人は、あの大夫の生まれ替わり、誠に、有難い事というお話です。
拝殿
本殿
神社名 | 八幡宮 |
住所 | 福岡県飯塚市大日寺850 |
TEL | |
御祭神 | 応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、武内宿祢命、日本武尊、天照大御神、玉依姫命 |
創建年 | 673年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 無 |
御朱印 |
【福岡県筑前町】焼ノ峠古墳
国指定史跡 焼ノ峠古墳
昭和46年度(1971)農地改良事業に伴い発掘調査が行われ、九州最大の全長40mの前方後方墳であることがわかり、昭和50年2月13日に国の史跡指定を受けました。
この古墳は、標高130.6mの城山から分岐する標高56mの丘陵上にあります。
古墳は3世紀後半(古墳時代前期)のもので、平面形状は前方部が撥形に開き、後方部は北側がやや広くなる梯形となります。墳丘は、前方部が一段、後方部が二段で構成され、丘陵の地山を削り出し整形、後方部の二段目に盛土を盛っています。また、前方部西側前面に狭小な造出をもっています。古墳は、周溝まで含めると44.4m、後方部で幅28.3mとなります。死者を埋葬した主体部は確認できませんでした。周溝は、本来全周するものであろうが、狭小な丘陵上に立地するために流失したと思われ、現況では北側と前方部前面と東側の前方部からくびれ部で確認され、土師器の二重口縁壺や広口壺が周溝から出土しました。
この古墳は、この地域の有力な豪族のものです。