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【福岡県大野城市】平野神社

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福岡県大野城市平野神社

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由緒

正暦二年(991年)京都平野神社の御分霊を筑紫の牛頸に勧請鎮祭する。

大竜寺山山頂に奥宮として後に仁徳天皇を奉祀する。

本宮の平野神社延喜式名神大社二十二社の五位にして官幣大社。貞応元年(1322年)筑紫鎮護の祈祷料として御笠、■田、志摩、肥前豊前社領を勅賜さる。

古代の牛頸は須恵器を伝え作った人々の邑であった。


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神社の御神木 銀杏と落雷について

 

ここに枯れた大きな銀杏の幹がありますが、これは100年前の大正4年(1915年)に落雷により焼けて枯れたものです、100年経過した今でも腐ることなく当時の面影を残して平野神社の御神木として勇姿を見せております。

落雷で焼けて枯れた銀杏の上の部分を1992年(平成四年)に切り取り丹念に磨きをかけて記念のオブジェを作り拝殿内に飾っております。この銀杏の装飾物(オブジェ)は、雷の怖さを忘れないようにという思いで造られたものです。枯れた大木の幹の部分からは奇跡的に新しく芽生えた銀杏の若芽がすくすくと育ち、大きな二代目の御神木となっております。拝殿の銀杏の装飾物や枯れた一代目の御神木を見るたびに雷の恐ろしさを確認して頂き、雷が近づいてきたときは早めに住宅などに避難されるよう注意を促しております。


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高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民のかまどは にぎはひにけり

仁徳天皇御製


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三つの石神

伝承によると、右は「頭の神」、中央は「疱瘡の神」、左は「熱の神」と言われています。

疱瘡とは天然痘のことであり、非常に怖がられていました。なお、この石神建立、由来は不明です。


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神水文殊菩薩筆塚、平野の大樟


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【福岡県大野城市】竹田謙窓先生追慕碑

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竹田謙窓先生追慕碑
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竹田子斐は、春庵先生(竹田定直)の裔(子孫)なり。先生より鴻儒(大学者)を以って顕れ、家其の学を伝う。旧藩(黒田藩)の修猷館を建つるや、梅盧(竹田定良)先生祭酒(学政をつかさどる長官)となり、遂に世襲の職となり、子斐に及ぶという。

子斐名は、定■、別号は謙窓、■家芸をつぐ。戊午の歳(安政五年)余と東遊し、共に安積の門に入る(弟子になる)。余の塾を辞するに及び、子斐代わって塾教を督す。辛酉の歳(文久元年)藩主に■従し西帰して官職に任ず。乙丑の歳(慶應元年)側銃頭となり、丙寅の歳(慶應二年)館の祭酒となり、升班(昇任)して侍読(藩主に講義する)を帯ぶ、時に世変多く、子斐余と同じ使命を奉じて奔走し労あり。丁卯の歳(慶應三年)奥頭取となり陸士頭班に■る。侍読館職旧の如し、戊辰の歳(明治元年)藩主に従って京に登る。己巳の歳(明治二年)疾を以って職を辞す。辛未の歳(明治四年)秋月黒田氏の聘する所となり侍読を託せらる。置県の後各地の校職に歴任し、最期に改築修猷館に教導たり。明治二十二年十一月二十二日病没す。享齢五十七。

 子斐人と■り才敏、詩及び文を善くす。再び長崎に遊び、清人林雲達諸人と文学の交りを結び、書法趙松雪に学び、■実観るべし。

今追慕する者相謀り、財を■せて将に碑を牛頸の遺宅の傍の地に建てんとす。黒田侯爵金を賜いて挙を助けられる。子斐の余に十余才、学事より使事に及び、毎に其職を聯ね、終身親善なり。因ってここに銘を作る也。

■君の道を説く、克く■し、克く通ず、而も自ら視ること猶蒙のごとし。■君の事を処す。克く思い、克く■ず、而も自ら視ること猶浅きがごとし。唯謙の益を受くる、猶窓の光を納るるがごとし。その命の短折吾人の悲傷するところ。涙を■って筆を■ぎて、■に以って銘章を製る。

 

【福岡県大野城市】竹田修吉先生追慕碑

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竹田修吉先生追慕碑
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恩師竹田修吉先生追慕碑

 

 恩師竹田修吉先生は、黒田藩儒(学者)瞬庵先生(竹田定直)十代の裔なり。家は世々藩学修猷館の祭酒(校長)たり。廃藩の後明治七年先考(父)謙窓先生居を牛頸の郷に定む。先生時に二才 先生■童(すぐれた子供)にして修悠館に学び、また贄を宮本竹■先生に執り(門人になる)孔孟程朱(孔子孟子、程■、程■、朱纂)の道を修め■然頭角を露はす。明治二十五年牛頸小学校に奉職し、爾来三十星霜、教■■むことなく精励すること一日の如し。このゆえ先生陶■(教え導く)の者父子相続き■頓(村中)に満つ。先生自ら倹■(つつましくおごらない)を奉して、栄達を追わず名利を■めず。以って範を一郷に垂る。なお郷俗質僕郭厚(飾りけがなく人情があつい)の風ある所以は、蓋し先生の徳化と謂ふべし。而してすでに先生老を告げ教職を去る。村民これを惜しむ。なお学務委員に推され学事に■掌し(忙しく働いてひまがない)、更に選ばれて村会議員となり、産業組合監事に■■し、村治の功績少なからず。頃者(このごろ)其薫陶を蒙りし者■議(互に相談する)し、碑を建て以って徳業を後昆に表はさんと欲し、来りて文を余に属す。余不文なりと雖も、眷顧最も厚くして深く先生の徳行を知る者又何んぞ敢へて辞すべけんや。

■って其の■概を叙へて爾か云う。

 

【福岡県大野城市】胴ノ元古墳

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福岡県大野城市の胴ノ元古墳


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古墳とは、今から約千七百年前から、千三百年前にかけての四百年間に土を大きく盛りあげてつくられた墳丘を持つお墓のことです。

 上から見た形によって、円墳、方墳、前方後円墳などに分けられます。また、一般に墳丘の中には死者が安置された石室があり、その構造の違いによって竪穴式石室と横穴式石室とに分けられます。

 このような分け方によれば、胴ノ元古墳は古墳時代の終わり頃(約千四百年前)につくられた横穴式石室を持つ直径約十一メートルの円墳ということになります。

 ここで、左の模型を見て下さい。胴ノ元古墳はふたつに切ったもので、横穴式石室の構造がよくわかります。

 右側に出入口があり、そこからトンネル状の細長い部分が続いていますが、ここが羨道と呼ばれる通路です。

 その左側の長方形の部分が玄室で、ここに死者を安置しました。胴ノ元古墳の玄室からは、須恵器という灰色の固い土器や、青銅にメッキをしたイヤリング(耳環)、ネックレスに使ったガラス製の小さな玉などが出土しました。

 胴ノ元古墳は、もとは周囲の道や水田より十四メートルも高い丘の上にあったので、その上に立つと牛頸全域から春日市の方まで見渡すことができました。

 古墳がつくられた当時は、牛頸の山々に須恵器を焼く煙が立ちのぼっているのが見えたにちがいありません。

 

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石室入口


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この公園は、以前は高さ14mほどの小高い丘で、その頂上に今から1400年ほど前につくられた胴ノ元古墳がありました。園内にはつくられた当時のままの胴ノ元古墳の姿が再現されており、郷土の歴史の生きた教材として皆様に役立てていただくことができます。

 

 

【福岡県大野城市】白垣喜八郎翁碑

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白垣喜八郎碑
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白垣喜八郎翁碑

 

 白垣翁は福岡県筑紫郡大野村大字牛頸の人、父は太作翁といふ。天保七年(1836年)正月八日を以って生れ、七歳にして父を喪ない、独り母と居る。八歳にして継父岡田六次を迎ふ。十七歳にして家産を支えられざるを以って田園を■り、居を博多に徒し継父の家を嗣ぐ。貧常に白垣家の廃絶を憂ひ、養家を異父弟久五郎に譲り■郷里に帰る。二十五歳にして田中氏を娶とり、鍛冶職を以って一家を興し、励精四十余年、生計自から植え余裕あるに至る。翁の人となり謹■■■■■性慈善を好み、貧を救け窮を■み、苟も人を利するに其力を■くすを以ってす。■人家を成し業に就く者数十人具に石橋を架け道標を建つ。遠近の者裕く其徳に感し■■翁年有志相謀り碑を建てその篤行を表さんとし、又を余に属す。その挙を讃えて辞せずして紀す。

 

【福岡県志免町】亀山石棺


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亀山石棺 志免町指定史跡

 

 この亀山八幡宮境内には、弥生時代末から古墳時代初頭に造られた「亀山石棺」があります。須恵川流域の平野と多々良川流域の平野を望む場所にあり、墳丘をもつ大型石棺墓1基のほかに石棺墓6基が確認されています。

 1号石棺と3号石棺は九州でも最大級の箱式石棺墓で、内部には朱が塗られた貴重なものです。

 

亀山石棺は、須恵川と多々良川の流域平野が望める独立丘陵上に立地し、大きな石材を用いた石棺が主体部の古墳1基と、石棺墓6基(2基は埋まっています)で構成されています。

 1号墳は、1924年発行の県文化財報告書に、既に墳丘が削られて大型石棺が露出していたという記述があり、1992年の調査で直径約13mの円墳であること、碧玉製の管玉4点や朱の塊などが発見されたことなどから、この地域の首長クラスの墓であったと考えられます。

 弥生時代終末期の糟屋地域には、亀山石棺のほかにも、大隈石棺(県史跡・粕屋町)などの大型石棺墓がいくつか分布しています。これらの貴重な文化財を、大切に後世に伝えていきたいものです。




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1号墳

 墳丘規模12・8m、高さ2mの円墳と考えられます。

 蓋石が270㎝×180㎝、内法は縦180㎝×横50㎝×高さ40㎝の日本でも最大級の大型箱式石棺墓です。

 4個の管玉が出土し、内側に朱(赤色硫化水銀)が惜しげもなく使われています。

 

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石棺群

 亀山八幡宮に見られる石棺の大きさは、大小さまざまです。大きな石棺には大人、小さな石棺には子供が入る大きさです。

 そして、全ての石棺には朱(赤色顔料)が塗られています。

 また、これらの石棺は寄り添うようにあり、葬られた人たちは親族関係にあったのではないかと考えられています。

 


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