【長崎県島原市】島原武家屋敷
武家屋敷街
ここ一帯に徒士屋敷があり、松倉重政が島原城を築いた時に、下士をまとめて住まわせました。(上士は城内に取り込んでいます)
一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣家の奥までまる見えで鉄砲の筒の中を覗いたようだというので、鉄砲町と呼ばれていました。
鉄砲組すなわち歩兵の居住地帯であったからでもあります。
城に近い方から、下ノ丁、中ノ丁、古丁(ここまでが松倉時代分)、下新丁、上新丁、さらに新建と江戸丁、新屋敷などを配置しました。
いずれも長さ約四百メートルの屋敷町です。それぞれ約九十坪の屋敷に建坪約二十五坪で、屋根はわら葺きです。約七百軒ありました。
町を流れる清水は北方二キロにある杉谷・水の権現(温泉熊野神社)から引いた人工の水路です。飲用水にもなっていましたから、水奉行を置くなどして大切に使用されていました。
1775年頃には石垣などを整備しています。
ここには江戸の昔が残っています。
山本邸(明治元年 建設)
山本家の初代佐五左衛門は、忠房公の先代三河(愛知県)の吉田城主忠利公時代からの家臣となり、寛延2年(1749)、5代忠祇公の宇都宮移封、安永3年(1774)、6代忠■公の島原への所管の所替に際して随行し、その後幕末まで前後十三代の城主に仕えました。山本家は城主からの信任が厚く明治以後は悟朗氏秀武氏と合わせ10代続いております。
5代茂親氏は寛政2年(1790)に一刀流の免許、文化元年(1804)には萩野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めました。
17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものであります。
山本邸
龍馬の長崎初上陸の地は島原だった~龍馬が歩いた島原街道~
坂本龍馬が勝海舟に同行し、初めて長崎を訪れたのは1864年。長崎での龍馬の活躍は広く知られているところだが、その第一歩は島原の地であった。
龍馬たちが通った島原街道界隈には、島原城や武家屋敷があります。
お城を仰ぎ見ながら桜の咲く山道を長崎へ急いだことでしょう。帰路も、次第に近づくお城を見、雲仙岳と有明海を左右に眺め、その光景に見張ったことでしょう。
「海舟日記」から抜粋
元治元年(1864年)二月二十一日
新町出立、馬にて高橋宿に到る。同所より乗船。此夜、島原へ渡る。此地、小川あり。小船にて川口へ下る。半里。
二十一日
払暁、島原へ着船。城下本陣へ休息。直ちに出立。此地より長崎迄は土地ぎょうかく。田畑の間、大石雑(まじ)わり、小石、道路満ちて甚だ悪し。雲仙の嶽、噴出せしによるか、西洋に云うラアミ(溶岩)年を経しものあ(な)らむ。
~この間、長崎過ごす~
4月4日
長崎出立。矢上中食。見立の者彦次郎、安之丞用達。筆者両人。肥前藩杉谷応助、老候の内命あり。
5日
島原着。
6日
渡海、熊本着、肥後候より使者あり。
石と湧水がつくる独自の景観ー武家屋敷ー
武家屋敷は、島原城の築城と同時期の1620年代に、下級武士の居住地として整備されました。当初、石垣はありませんでしたが、藩主の命により1775年に石垣と垣根が築かれました。この石垣には、雲仙火山から噴出した溶岩が使用されています。
武家屋敷の街並みは、石垣と道の中央を走る石組の水路が特徴です。水路を流れる水は、神社から湧き出る湧水を引いたもので、住民の生活用水として大切に使われていました。
武家屋敷では、様々な組み方の石垣が見られます。これは各武士に仕えていた農民の石垣を組む技術や、石垣の補修時期の違いを表しています。ここ下の丁の石垣の多くは明治以降に再建されたものですが、一部の石垣の下部には、江戸時代に作られたものがそのまま残っています。
篠塚邸
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪)である。
篠塚邸
島田邸
島田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9(1669)年、ここ島原に入った。歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨■格で7石2人扶持を受け、材木奉行。宗門方加役・船津往来番などの重職についた。このあたりは一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。道路の中央を流れる清流は、往時の生活用水である。
六五の井戸
ここ鉄砲町は古くから町筋の中央を流れる清水を、水奉行の厳重な管理のもと、飲料水として使用していた。
しかし、大正初期、周囲に田園地帯が急増し、灌漑用に使用するなど、当時の通水は従来の四分の一程度に減少し、さらに、伝染病が猛威をふるい、多数の患者が出るにいたって大きな問題となっていた。
山本家第八代当主秀左右は、この現状を深く憂慮し、井戸掘りに着手した。
大正六年五月に完成を見たので、それに因んで六五の井戸と命名した。
井戸の深さ 約8・2m
水深 約2m
形 円形(直径約1m)
作業延人員 42人
総経費 50円95銭2厘(当時、米十キロが約1円)
工事日数 十日
吉田松陰来訪の地
ここは島原藩士・宮川度右衛門の屋敷跡です。この一帯は、鉄砲町の一角にあたり、幕末の『島原藩士屋敷図』にも、ここが宮川邸であったことが記されています。
幕末期の当主・宮川度右衛門守典(1794-1859)は、種子島流萩野派の砲術師範として、多くの弟子を育てました。
嘉永三(1850)年十二月四日、長州藩士・吉田松陰(1830-1859)が、兵学の研鑽の旅の途中にここを訪れております。
松陰は、この旅について記録した『西遊日記』の中に、「宮川云、直発砲ニ非サレハ功ヲ成ス事ナシ、故ニ近頃葛論砲ヲ造ル」(訳・宮川が言うには、直発砲でなければ功を成すことはない。そのため近ごろはカノン砲を造る。)とこの日守興から聞いた話を書き残しています。
遺跡名 | 島原 武家屋敷 |
住所 | 長崎県島原市下の丁 |
TEL | 0957-63-1087 |
年代 | 江戸時代 |
指定区分 | |
駐車場 | 有 |