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【鹿児島県曽於市】熊野神社


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鹿児島県曽於市熊野神社


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都城島津家の富山野辺古文書に「有五宮御召謁大隅国深川院御下向之間奉隠量之元弘三年四月二十九日挙義兵打平凶徒等累」とあり、五辻宮が元弘三年四月当神社境内の深河院に下向の際、優諚を賜った。野辺盛忠が恐懼同院に隠し奉ったという史実がある。

 当初建立の際の棟札の写しに、薩摩守小野朝臣忠久、同地頭代伊賀守宇治忠英の名がみえる。近くの宝寿庵城には、島津九代忠国公、十一代忠昌公、十五代貴久公の居館が造られ、歴代の島津氏の信仰厚く広く崇敬された。

 

深川院

 末吉は昔、深川院といった。院というのは役所のこと倉庫の事務を執る所で租税としての穀物などを収納していた。末吉ではその倉庫が、この地にあったと伝えられ、やがて深川院が末吉の名になっていった。深川院は島津荘に属していた。

 南北朝時代、櫛間領主・野辺盛忠は深川院まで領知していたが、元弘三年四月(1333)この深川院に五辻宮守良親王を奉じて義兵を挙げた。

 当時、野辺氏の代官として深川氏がこの地を治めた。熊野神社境内の五輪塔は深川氏の祖先の墓と伝えられる。溝辺氏の前の方に深川家の屋敷跡と氏神がある。深川氏の子孫は現在都城市に居るこの地は毎年1月7日鬼追いの行事が行われていることは有名である。

 神社の参道に仁王像が二基ある。これは光明寺にあった仁王像で廃仏毀釈のとき土中に埋められたのを堀り出したので損傷が少ない。大体、室町時代と推定される。

 


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熊野神社の鬼追い

 毎年正月七日の夜、深川の熊野神社で行われる鬼追い行事は、奇習として伝承されている。

 御幣に身をまとった三匹の鬼(男鬼・女鬼・小鬼)が樫棒をもった二人の付けと組になって荒々しく鬼堂を飛び出し、石段を駆け下って凍り付く夕闇の中、一目散に光明寺仁王像の所に走り、御神酒をいただくや、周辺の観衆との喧騒と化す。

 観衆は鬼のなびかせる御幣をちぎろうと鬼に近づく。鬼は鬼の手と付けの樫棒で容赦なく打ち暴れる。古来より鬼風に吹かるれば心身健全なりと鬼は疲れると鬼堂に帰り善男善女には煎豆が配られ祭りは終わる。

 この夕闇の中で繰り広げられる異様な光景について民俗学的視点から注目されている。一つは、鬼追いはもとは光明寺の修正会に伴う仏教行事が廃寺後熊野神社主宰となったと考えられる。二つは、本来追われる鬼が鬼追いの鬼は招福除災の性格をもっている。

 深川の鬼は、新春を寿ぐ神の性質を残し、まさに鬼神であろう。

 


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御朱印は道の駅すえよしの曽於市観光協会で頂けるようです


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深川院の五輪塔

 深川院は平安時代末期に始まるといわれる。南北朝時代(1340年ごろ)櫛間院(串間市)及び深川院の地頭野辺久盛の二男美作守盛政がこの地の代官となり地名をとって深川氏を名乗った。

 深川氏代々の館跡は東300m(現在溝辺氏宅前)の所に氏神堂が残っていたがこの辺り一帯に広大な屋敷があったといわれる。五輪塔は古くから深川氏の先祖墓と伝えられている。

 


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五輪塔


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宝暦九年、宝暦九年、安永7年(左から)