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【鹿児島県曽於市】興昌寺跡

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鹿児島県曾於市の興昌寺跡


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興昌寺跡

 この地は、かつて興昌寺(本府福昌寺の末、曹洞宗)のあった所で、明治二年頃の廃仏毀釈によって廃寺になった。

 興昌寺墓地には、鎌倉時代末期の五輪塔二基(正中三年・1326の銘あり)をはじめ、末吉郷初代地頭村田雅楽介の墓(慶長年間墓標杉樹朽株現在無し)、薩藩の学者愛甲喜春の弟子白尾桃庵(等庵)の墓(享保二年、1717没)明治初頭常備隊小隊長で学者であった矢上恭介の墓(明治26年、1893没)興昌寺にあった。

 仁王像二体(宝暦九年、1759、造立、施主の名を刻す)その他、末吉郷士諸家の墓、興昌寺関係の墓など往年の興昌寺をしのばせると共に文化財として重要なものが多かった。

 昭和49年3月、この地は農村地域工業導入促進のため、末吉町土地開発公社によって工業用地を造成15mの丘陵を地ならししたので由緒ある造物、文化財をこの場所に集めて顕彰することにした。


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1759年造立の仁王像


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興昌寺五輪塔

興昌寺開基の僧月舟と妻の墓という。正中三(1326)年の建立で、五輪塔の地輪部に「法名妙蓮藤原氏 正中三年卯月廿八日」の刻字がある。曽於市指定文化財


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村田雅楽助の墓

慶長期、末吉郷初代地頭である村田雅楽助経宜の墓。入道名は寿仙。島津義久や義弘に仕えた。文化人でもあり、住吉神社へ多くの和歌を奉納している。元々、墓標は杉であったという。曽於市指定文化財

 

村田雅楽助は末吉外城(郷)建設の時、初代地頭であった人、夫妻の墓標に杉樹を植えたが今は古株が残っている。


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白尾桃庵の墓

白尾桃庵は学者(儒学)で、志布志の愛甲喜春の弟子である。末吉郷で若者の教育にあたった。享保二(1717)年八月に死去。墓石には等庵とある。曽於市指定文化財


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矢上恭介の墓

矢上恭介(天保八年十一月二十八日生)は学者で、有馬厚軒の助講を務め、多くの子弟を教育した。明治二年常備隊小隊長、同十九年恒吉郷の戸長も務めた。


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文化十二年、元禄二年、元文五年(左から順に造立年)