【山口県下関市】亀山八幡宮
扁額の「山」の部分に挟まった野球ボール
亀山砲台跡
江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、長州藩は全国にさきがけ外敵防衛策をとり、長州藩主毛利元周公は亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。
文久三年(1863)五月十一日午前二時久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台から発射され米仏蘭三国相手に六回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。
同年六月一日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、時の人はこれ神威なりと矢よけ八幡宮と称えた。
翌年八月の四ヶ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、開国、尊王討幕を経て、明治維新へと急速に時が流れた。
亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのであった。
伊藤博文公夫妻史跡「お亀茶屋」跡
幕末のころ北前船の寄港地として海産物が集散し西の浪華として栄えていた下関の街を、明治維新の志士たちが繁く往来していました。
慶應元年(1865)の初夏、刺客に追われた伊藤博文公が亀山八幡宮境内で、茶屋のお茶子だった木田梅子に助けられたのが二人の出会い、その一年後に夫婦になりました。
伊藤公は明治新政府を樹立し、初代内閣総理大臣として日本の近代化と発展に身命をなげうち、明治四十二年(1909)、凶弾に倒れました。
明治の元勲と称えられる伊藤公と、公を支えた梅子夫人が結ばれたゆかりの場所です。
「国のため 光をそへて ゆきましし 君とし思へど 悲しかりけり(梅子)」
夫人は大正十三年(1924)に七十七才で亡くなりました。
ふくの像
拝殿
本殿
神社名 | 亀山八幡宮 |
住所 | 山口県下関市中之町1−1 |
TEL | |
御祭神 | |
創建年 | |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |