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【福岡県那珂川市】裂田神社

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福岡県那珂川市鎮座の裂田神社
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裂田神社

 裂田神社は安徳、宇竜頭にある。裂田の溝を記念して神功皇后を祀ってある。朱塗りの拝殿は間三間、入二間、絵馬がところせましと奉納され、その奥に神殿がある。神殿の扉には菊花の紋章がある。境内には明治39年の鳥居をはじめ、こまいぬ、注連掛石などが、杉の老木や古株と並び、裂田の溝が周りをめぐっている。

 例祭は11月28日で氏子の人たちが集まって火たきごもりをする。


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裂田の溝ものがたり

 いまから2500年以上も前、昔々の、その昔、おばあさんの、おばあさんの、そのまたずうっとおばあさんの頃の話です。那珂川の豊かな流れが博多の海に注ぎ込み、周りには広い広い平野が見渡す限りに広がって、その一番大切な中心となるところが、故郷の安徳村でした。

 そして、安徳村にある大きな台地(安徳台)とその周りには、穴を掘った上に木を組んで作った竪穴住居が立ち並び、たくさんの人々がにぎやかに暮らしていました。

 ところが、近くには那珂川の豊かな流れがあるのに、川が低くて、田んぼに入れる水を引くことができず、お米をたくさん作ることができませんでした。安徳村のたくさんの村人は「こんな広い草原を田んぼにできたら、いいのになあ」「どけんかして那珂川の水を引き込むことができんやろうか?」「そしたら、おなかいっぱいお米が食べられるようになるのになあ」などと、口々に話しあっていました。

 そんな日々が何年も何年も続き、800年の年月が過ぎたある時、神功皇后が、新羅(いまの朝鮮半島)との戦いのために、安徳村にやってきました。皇后は、旅の無事と戦いの勝利を神々にいのり、那珂川から船出していきました。やがて、戦いに勝って無事帰ってきた皇后は、神々へのお礼のために、現人神社におまいりしました。そして、現人神にお米をささげるために、神田を開く、という知らせが村々に伝わりました。「新しく神の田をつくるには、水を引かねばならん、そのための溝を作る大工事を行うぞ!」皇后の命令で、たくさんの兵士が集まりました。「溝ができれば、畑んなかに水が引けるばい!」「米ができるたい!」「おいしいお米が食べられるぞ~」喜び勇んだ村人たちも、あちらの村からこちらの村から、鍬や鋤を手に我も我もと飛び出してきました。

 兵士も村人も力を合わせて、川上の山田のあたりから、一生懸命掘り進みました。丁度、安徳台の辺りまで掘り進んだ時でした。みんなの口から悲鳴があがりました。

「わあ!こら、どげんしたらよかろうか~」なんと、大きな大きな岩が行く手を塞いで、剣や鋤や鍬にもびくともしないのです。死に物狂いで掘ってきた溝をここで諦めるしかないのかと、人々はがっくりと肩を落として、座り込んでしまいました。

 これを見た皇后は、武内宿祢という身分の高い家来に命令して、溝を通してくれるよう神々に祈りを捧げました。

 すると、どうでしょう!

「ピカリ!バリバリバリ、ドッカーン!」今まで晴れ渡っていた空が、突然真っ暗になったかと思うと、稲光が光って、耳をつんざくような音を轟かせて、ものすごい雷が大岩に落ちたのです。あまりのすごさに、さすがの大岩も、とうとう裂けてしまいました。

「ばんざ~い!」「やったぞ~!」

人々は手を取り合って喜び、元気を取り戻し、また一生懸命堀り始めました。そして、今光村まで掘り進んで、ついに平野に那珂川の水を引くことができるようになりました。こうして、貧しかった安徳の村々は、豊かな水田に生まれ変わり、何千人もの人が美味しいお米を食べられるようになりました。

 人々はお米作りに励み、秋には、豊かに実った稲穂で、村は黄金色に染まりました。この時から、このあたりを「とどろきの丘」と呼び、この溝を「裂田の溝」と呼ぶようになったということです。

 この裂田の溝は、それから1600年もの長い間、那珂川の七つの村、山田・安徳・東隈、仲・五郎丸・松木・今光を潤し続けています。

 あなたが、いつも食べているご飯も、裂田の溝から引いた水で作られたものなのです。あなたがザリガニを取ったり、釣りをしている小川も、裂田の溝から引かれたものなのです。 

 このように、千数百年以上も前に作られたものが、今もその形のまま働いて、私たちの暮らしに役立っているようなところは、日本中探しても他にありません。私たちの祖先が残してくれた、素晴らしい「裂田の溝」を大切にして、これからもずうっと守り伝えていきましょう。

 

裂田溝について

裂田溝は「日本書紀」にも記載があり、歴史的な景観を残しながら約1300年を経てもなお、現役の人工用水路として活躍している貴重な古代水路です。背振山から流れ下ってきた那珂川が、周囲の山地をぐっと押し広げるように平野を開いたあたりに、その水路を位置します。那珂川の一ノ井手より取水し、全長は約5・5㎞あります。農業用水路として、山田から安徳、五郎丸、松木を経て今光までのおよそ130haの水田を潤し、また、雨水の主要な水路として利用されるなど、現在でも、利水・治水の両面において活躍しています。

 

安徳台

安徳台は奴国(なこく)の拠点集落のひとつである。日本書紀には「とどろきの岡」と記され、江戸時代には御所ヶ原とも記されている。安徳台は高台となっており、台地上は約10万㎡の平地となっている。

 

岩門城跡

標高195mの山頂に築かれた山城で、江戸時代の文献には延久(えんきゅう)5年(1073年)に完成したと記されている。中世の博多や太宰府を警備する軍事的重要拠点であり、旧那珂郡随一の歴史を誇る山城である。


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拝殿

 

神社名 裂田神社
住所 福岡県那珂川市山田
TEL  
御祭神 神功皇后
創建年  
社格  
建築様式  
駐車場
御朱印