【福岡県宇美町】光正寺古墳
福岡県粕屋郡宇美町の光正寺古墳
発掘調査と整備
光正寺古墳は戦後間もない1950年代初めに森貞次郎博士が、墳丘の形状が古式古墳の形状をよくとどめているとして、墳丘測量を行い、古墳の保護の必要性を指摘されていました。
宇美町では、1970年代から国・県の協力を受け町有化を進めてきた結果、1975年に国指定史跡となりました。光正寺古墳の保存整備のため、1996年から1998年までの3ヶ年で墳丘裾、主体部の発掘調査を実施し、墳丘の規模、主体部の形状を確認しました。そして、発掘調査の結果を基に1999年から2000年までの2ヶ年で復元整備を行い、史跡公園として整備をいたしました。
墳丘は盛り土で保護し、築造当初の形状を再現しています。しかし、本来は墳丘に葺石が敷かれていましたが、葺石部分は復元せずに、古墳周辺の芝生の広場と一体として利用できるように整備しました。
本来の墳丘や主体部の形状については、ガイダンス広場に1/5の大きさの古墳模型で復元しています。
光正寺古墳の特徴
築造年代は第1主体部から出土した土器が古式の土師器であり、福岡県内の前期古墳でも最古期に造られたもので3世紀後半に位置づけられます。
墳丘規模は全長約53m、後円部径約33mで粕屋郡内最大の前方後円墳であることから、当時粕屋郡内を支配していたと思われる「不彌国」王の墓と考えられます。
埋葬施設
埋葬施設は、後円部中央に第1主体部(築造当初の墓)を埋置しています。第1主体部は、大型の箱式石棺を川原石で囲んでいます。石棺の石材は、能古島の玄武岩や月隈丘陵の緑色片岩、若杉山の滑石などが使用されています。第2主体部は、第1主体部の北東側に箱式石棺が築かれていました。石棺は破壊されていましたが、発掘調査で石棺の石材には地元の砂岩を使用していることがわかりました。第1主体部の南側では、第3主体部(割竹形木棺)と第4主体部(土器棺)を、また第1主体部西側に第5主体部(箱式石棺)を確認しました。
第1から第4主体部は、主軸を東西方向に整然と並べて築かれ、頭位は西に向けていたと推定されます。これらに対し、第5主体部は南北方向に主軸を向けて造られています。
主体部の築造は、第1・2・3・4・5主体部の順に造られたようです。
光正寺古墳の周辺には、多くの遺跡があります。なかでも光正寺古墳を知る上で重要な遺跡として、光正寺古墳の北側に築造されている七夕池古墳と光正寺古墳の東側約400mの位置にある神領・浦尻古墳群があります。
志免町の七夕池古墳は、粕屋平野最大の円墳で主体部は竪穴式石室に木棺を埋置し、40歳代の女性が埋葬されていました。古墳は盗掘を受けていなかったため、埋葬時の状態で多くの副葬品が出土し、当時の埋葬状況を知る貴重な資料となっています。
古墳が造られたのは、光正寺古墳より約100年ほど後の4世紀後半ごろです。光正寺古墳とともに、1975年6月に国の史跡に指定されました。
神領・浦尻古墳群
光正寺古墳から東に400mの位置に神領・浦尻古墳群があります。古墳群は4世紀後半から5世紀初頭に造られたもので、現在、前方後円墳1基と円墳10基が残っています。
発掘調査された神領2号墳では、主体部が2基確認され、光正寺古墳と同様に複数の埋葬施設を有する古墳として知られています。
光正寺古墳模型
大きさは約1/5の大きさに復元しています。実物の古墳には本来、葺石が2段目と3段目にめぐっていました。
この模型では、造られた当時の葺石状態を復元しています。
後円部
前方部 北側に七夕池古墳
古墳名 | 光正寺古墳 |
住所 | 福岡県糟屋郡宇美町光正寺3丁目3−4537番地11 |
築造年代 | 3世紀後半 |
型式 | 前方後円墳 |
主体部 | 第1・2・5(箱式石棺)、第3(割竹形木棺)、第4(土器棺) |
墳丘大きさ | 全長54m、後円部径34m、後円部頂上径13m、前方部幅20m くびれ部幅16m |
石室大きさ | |
指定区分 | 国指定 |
駐車場 | 有(6台程) |
備考 | 七夕池古墳が近くにある。不彌国王の墓か? |