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【佐賀県鳥栖市】日子神社

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佐賀県鳥栖市の日子神社


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鳥栖長崎街道

轟木宿

 

 長崎街道は、江戸時代の小倉ー長崎間57里(約220㎞)を25か所の宿場で結んでいました。当時の鎖国体制の中で唯一、海外への窓口であった長崎。その長崎へと続く長崎街道は、貴重な‘文明ロード‘とも言われていました。

轟木宿は肥前鍋島藩の東端にあたる国境の宿場町で、町は上町・中町・下町・新町から成り立っていました。江戸時代の記録には「人家140軒計、宿屋・茶屋多し」と記されています。

 

長崎街道・轟木宿

 

 轟木宿は肥前鍋島藩の東端に位置する国境の宿場町で、轟木川(別名番所川)を対馬宗藩との境界とし、番所が設けられきびしい検閲を行っていました。

 宿場町は上町・中町・下町・新町の四町から成り、番所は上町に、幕府の布告・人馬の公定賃金などを書く制札は中町との角に、人足・馬を用立てる人馬置床は下町に設けられていました。旅籠・商店は中町・下町に多く、長崎屋・角屋・柳屋など十三軒の旅籠が並んでいました。また、藩境であったため、藩主の宿泊する御茶屋も中町の東側に建てられていました。新町には細工師・大工などが多く住み、職人町となっていました。

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  佐賀旧藩主鍋島加賀守直茂公豊前国彦山神社に深く御信仰になり心願に依て慶長2年御分霊を勧請し壮大なる社殿を建築し社地九畝十八歩を供せらる。
 旧藩主御代々旧6月13日及9月23日は盛大なる祭典を行はせられ且つ幕府登城の砌は往復共に代参を差立てられ社殿修理等も手添あらせらる。
 明治14年、村社に列せらる。
 大正14年、神饌幣帛供進神社に指定せらる。

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肥前鳥居


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【東京都渋谷区】東郷神社

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東京都渋谷区鎮座の東郷神社

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東郷平八郎命は弘化四年(1847年)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島市加治屋町で生まれ昭和九年(1934年)五月三十日八十八歳で東京麹町三番町で薨去されました。

明治四年(1871年)二十四歳のとき英国留学七年間海軍士官としての修業をつまれました。以来、軍務に精励し同三十七、八年(1904、5年)の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し特に同三十八年五月二十七、八日の日本海海戦で露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ国難を救ったことは有名であります。大正三年(1914年)東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重大な責任を果たされ明治、大正、昭和と三朝に至誠一貫臣節を全うされました。その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲功一級侯爵の栄誉が贈られ高い人格と陰影なきまごころの人として日本だけでなく世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるようになりました。昭和九年九月財団法人東郷元帥記念会が設立され全国民崇敬者の協賛により同十五年五月(1940年)創建鎮座祭を執行し府社となり別格官幣社列格寸前の同二十年(1945年)五月戦災により一切炎上しました。戦後は仮殿に奉斎、同三十九年(1964年)の祭神三十年祭を目標として同三十三年五月復興奉賛会の設立となり全国崇敬者の絶大なる協賛を得て、御社殿復興同三十九年五月二十七日御遷座祭を執行し二十八日竣工、奉祝祭並に三十年祭が盛大に斎行されました。同五十九年(1984年)は祭神の五十年祭並に復興二十年記念祭に相当するので数年を費やして神符授与所、透塀、四参道灯篭四基、北参道鳥居再建、池の改修、井戸新さく、旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め同五十九年五月に五十年式年例大祭・次いで命日祭・五十年豊前祭(於多磨霊園)が厳修されました。

平成二年(1990年)には御鎮座五十年記念に当たり、崇敬者各位の■金によって御鎮座五十年記念事業として御社殿改修、神池の整備、社務所・和楽殿の改修・新築、記念出版等を完遂しました。

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拝殿

 

神社名 東郷神社
住所 東京都渋谷区神宮前1丁目5−3
TEL 03-3403-3591
御祭神 東郷平八郎
創建年 1940年
社格  
建築様式 神明造
駐車場  
御朱印  

【東京都台東区】浅草神社

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東京都台東区鎮座の浅草神社

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御由緒

 推古天皇の御代三十六年(628)三月十八日、漁師の檜前浜成と竹成の兄弟が浅草浦(現在の隅田川)で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。兄弟も不思議に思いその尊像を奉持して今の駒形より上陸し■の切株に安置しました。

 当時、郷土の文化人であった土師真中知に一見を請うた所、土師氏はこれぞ聖観音菩薩の尊像であることを兄弟に告げました。その後、土師氏は自ら剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音様を奉安し供養護持の傍ら郷民の教化に生涯を捧げました。いわゆるこれが浅草寺の起源となります。

土師氏が没した後、浅草寺創始者・浅草発展の功労者である三人を三社権現と称し神として祀ったのが三社権現社(現浅草神社)の始まりとなります。明治維新神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同六年に現在の社名に至ります。

 今もなお、「三社様」として親しまれている浅草神社ですが、元来三人の神様をお祀りしたことからそのように呼ばれています。

 

 

御社殿

現在の御社殿は慶安二年(1649)に徳川三代将軍の家光公に寄進をされた社殿となります。

 本殿並びに幣殿、拝殿とを渡り廊下で繋いだ権現造りです。二度に渡り社殿の修復が施され、昭和二十一年に国宝建築物に、更に昭和二十六年には重要文化財に指定されております。

 

三社祭

 正保元年(1312)に三社の神話に基き始められた『舟祭』が起源と云われています。

昔の祭礼は町内若衆によって本社神輿を担ぎ廻る事はなく、舟祭の行事が中心であり、又江戸時代には各町より出された山車が夫々の趣向で絢爛さや豪華さを競っていました。

 現在は本社神輿三基を始め、町会神輿約百基が浅草の町を練り歩く勇壮なお祭です。また、びんざさら舞の奉納や神幸祭など様々な神事が行われます。

 

浅草寺本尊示現会「堂上げ・堂下げ」

 浅草寺本尊示現会では古式に則り当社の本社神輿三基を浅草寺本堂外陣にお上げし、一夜奉安致します。一之宮、二之宮、三之宮が本堂階段を昇る様は、荘厳かつ優美で見る者を圧倒します。

 神仏分離以前の観音様と呼ばれていた三社祭の一部を再現し、五月の例大祭三社祭」へのプロローグとなります。

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浅草神社

 明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音様を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安二年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同六年浅草神社と改称した。

 現在の社殿は慶安二年十二月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿の間に「石の間」(幣殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年五月に行われる例祭「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。

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拝殿

 

 

神社名 浅草神社
住所 東京都台東区浅草2丁目3−1
TEL 03-3844-1575
御祭神 土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命
創建年  
社格  
建築様式 権現造
駐車場  
御朱印  

【東京都台東区】浅草寺

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東京都台東区浅草寺

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雷門(風雷神門)

天慶五年(942)、平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。

 現在の門は、慶應元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和35年松下幸之助氏のご寄進により復興された。

 浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。

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雷神

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風神

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宝蔵門

 宝蔵門は、大谷米太郎の寄進で、昭和三十九年に浅草寺宝物の収蔵庫を兼ねた山門として建てられた。鉄筋コンクリート造で重層の楼門である。外観は旧山門と同様に、江戸時代初期の様式を基準に設計されている。高さ二十一・七メートル、間口三十一・一メートル、奥行は八・二メートルある。下層の正面左右には、錦戸新観、村岡久作の制作による、木造仁王像を安置している。

 浅草寺山門の創建は、「浅草寺縁起」によると、天慶五年(941)、平公雅によると伝える。仁王像を安置していることから仁王門とも呼ばれる。その後、焼失と再建を繰り返し、慶安二年(1649)に再建された山門は、入母屋造、本瓦葺の楼門で、昭和二十年の空襲で焼失するまでその威容を誇っていた。

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宝蔵門

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本堂

 

 

寺名 浅草寺
住所 東京都台東区浅草2丁目3−1
TEL 03-3842-0181
本尊 聖観世音菩薩
創建年 942年
駐車場  
備考  

【福岡市東区】宮前古墳

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宮前古墳

 

 この古墳は西暦6世紀末につくられた墓と推定されていますので、今から約千四百年前に築造された横穴式古墳であります。

 昭和四十五年、高美台団地造成に先立って福岡市教育委員会文化課の手で発掘の結果、古墳内部に残された遺物などから武人の墓と想像され、馬具、直刀、黒曜石の矢じりの一部の外、金環、土器の出土品及びガラス玉、水晶の切子玉など三十八個が発見されました。

 この大神神社の境内地の造成前の地番は、福岡市東区和白宮前といい、唯今は、東区高美台二丁目と改称されましたが、更に尚団地内には、登り窯、古代製鉄所趾、古墳八基も発見されたことから「大和の将兵の駐留の折、大和の国一の宮大神神社からの勧請」云々の大神神社の御由緒から、主々とよみがえり来る心地して、古代史探求の重要性をしみしみと感じ入る次第であります。
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宮前古墳群1号墳
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宮前古墳群3号墳

 

 高美台地区には猿の塚古墳、高見古墳群、宮前古墳群の9基の古墳が知られていましたが、団地の造成で消滅し、現存するのは3基の円墳からなる宮前古墳群だけになっています。

 6世紀の終り頃(古墳時代)に造られた3号墳は、とくに築造当時に近い姿をとどめています。墳丘の径は約10m、埋葬施設は長さ7.3mの横穴式石室です。昭和45年の調査で石室内から須恵器、土師器、ガラス玉が出土しました。また、中国製の白磁碗も出土していることから、中世にも墓として使われたようです。

 2号墳は調査後埋め戻し保存されていますが、大神神社西側の1号墳は石室を見学することが出来ます。

 これらは、東区内に残っている数少ない古墳群のひとつです。大切に保存して後世に伝えていきましょう。
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3号墳
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古墳名 宮前古墳群
住所 福岡県福岡市東区高美台2丁目24
築造年代 6世紀末
型式 円墳
大きさ 墳丘径約10m、埋葬施設7.3m(3号墳)
石室 横穴式石室
駐車場
備考 大神神社境内