【福岡県久留米市】須佐能袁神社
福岡県久留米市鎮座の須佐能袁神社
石橋
楼門
通称、祇園社で知られています本社は建久8年(1197年)平家討伐に軍功のありました竹井城主、草野永平が勧請したといわれ代々城主の崇敬が厚く、草野家が豊臣秀吉の九州征伐のおり滅亡した後もこの町の氏神として祀り崇められました。祭神は素戔嗚尊で、現在の神殿は明治十九年に改築された欅の権現造りで拝殿、楼門ともに調和豊かな彫刻美を見せ、県の文化財に指定(昭和十二年)されています。
須佐能袁神社と躑躅
須佐能袁神社は、建久8年(1197)草野永平が勧請したと伝わる旧草野祇園社で、明治19年に6年の歳月を経て再建されました。
神仏混合様式の権現造りの本殿、拝殿および楼門は、いずれも県の文化財に指定されています。
境内の前庭に池泉鑑賞式庭園が残っており、植栽された樹木のなかにキリシマツツジの古木を見ることができます。
キリシマツツジは、現在多くの品種を持つクルメツツジの原種と言われています。
キリシマツツジは、江戸時代に15品種が明記されており、当地では、キリシマツツジ、紅キリシマ、ヒノデキリシマ、二重キリシマ、紫キリシマを見ることができます。
また、境内には、樹齢300年と思われるキリシマツツジの古木5株と他に多くのツツジの品種が見られ花を楽しむことができます。
拝殿
本殿
神社名 | 須佐能袁神社 |
住所 | 福岡県久留米市草野町草野443−2 |
TEL | 0942-47-0531 |
御祭神 | 素戔嗚尊 |
創建年 | 1197年 |
社格 | |
建築様式 | 権現造 |
駐車場 | 不明 |
御朱印 | 有 |
【山口県下松市】降松神社
山口県下松市鎮座の降松神社
楼門
推古天皇三年(595年)、都濃郡鷲頭の庄、青柳浦の一松の樹に大星が降り、七日七夜輝いて、「吾は天之御中主尊なり、今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし、其の擁護のために天降りし」と云う託宣あり。同五年(597年)三月二日、大内氏の祖先、百済国の璋明王の第三王子琳聖太子が来朝し、桂木山に御神霊を祀り北辰妙見社とたたえ、鷲頭の庄の氏神となる。以来青柳浦は降松と改められる。
推古天皇十一年(603年)高鹿垣に社殿を遷し、同十七年(609年)鷲頭山に、上宮、中宮を建立する。大内広世公は、鷲頭山の麓赤阪の地に若宮を建立し、大内義弘郷は、防・長・石・豊・紀・泉・和の七州の太守となり、応永元年(1394年)中宮に五重の塔、並びに仁王門を新たに建立。七州の各地に北辰妙見社を勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集める。慶長十三年(1608年)火災に遭い、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は、大永三年(1523年)大内義興公の再建による。山門(仁王門)は、文化四年(1807年)氏子中の再建による。
大内氏滅亡後、毛利の厚い信仰を受け、元和年中には、赤阪の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は、明治四年(1767年)毛利就馴公の再建による。
明治三年降松神社と改称され、昭和三年県社となる。境内は俗塵を払い古木鬱蒼とし、参拝者の心を粛然とさせる。
明治四十五年一大公園を設け「偕楽園」と名付け、春はつつじ・桜、秋は紅葉が錦を飾り、眺望絶佳にして、大正八年中将長岡外史は「周防第一園」とたたえ記念碑を建立する。
臥牛の庭
江戸時代の終わりごろ、地下の百姓が「しっかり牛がふえてどの百姓にも牛がもてるように」また「牛が病気をせぬように」と、牛への感謝と安らぎを求めて庭としたものである。谷間のわずかな平野を求めてたむろする一群の牛たちを表現している。
臥牛の庭
拝殿
本殿
神社名 | 降松神社 |
住所 | 山口県下松市大字河内吉原1984番地 |
TEL | 0833-41-0544 |
御祭神 | 天之御中主尊 |
創建年 | 603年 |
社格 | 県社 |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【山口県周南市】山崎八幡宮
楼門
山崎八幡宮は、社伝によると和銅二(七〇九)年、豊前国宇佐神宮の分霊を富田河内の神室山に祀った後、宝亀元(770)年、今の地に遷したことに始まる。大同元(806)年と宝暦七(1757)年に焼失しましたが、翌八年に徳山藩六代藩主毛利広寛によって再建されました。現在の社殿は明治十三年に改築されたものです。
元禄十五(1702)年に徳山藩三代藩主毛利元次が五穀豊穣を祈願して当社に本山・爺山・婆山を奉納したことに始まる本山神事は、平成十四年に市指定文化財(無形民俗文化財)に指定されました。また、かつて例祭の前には連歌が奉納され、延宝八(1680)年から明治五年までに奉納された連歌懐紙(付 重硯一式)は昭和五十七年に市指定文化財(書跡)に指定されました。
由緒
和銅二年八月豊前国宇佐より分霊を本市富田の河内神宝山に祀り宝亀元年十一月山崎の地に遷すと江宮と称し後荘寺八幡宮と改称、慶應二年山崎八幡宮と号を改む、古来領主藩主の崇敬篤く天文八年領主陶弘護同隆房は扁額を寄進、江戸時代には毛利歴代藩主の祈願所として藩主の社参代参、連歌の献詠、流鏑馬等が行われた。また新●陽市はもとより野島、大津島、徳山市周辺の氏神様として広く庶民にも信仰されている。
毛利元就公ゆかりの石碑
『洞春公(毛利元就)の安芸に起るや使を遣わして以て祈ること数(しばしば)なり、兵出でて勝たざるはなし、十州を奄有(領)す。以て冥裕(神仏のご加護)の使事する所となす』
文化四年(1807)南部伯民撰文
築山之碑詞
山崎に鎮まります廣幡の八幡大神の宮前は四方をみはるかすに心あらむ人にもいはまほしき気しきなむ南には黒髪島竹島などしまじまならび塩所にはもしほのけぶり朝夕になびきてえもいはずおかししかあるに明治の廿あまり二季といふ年より心ざしある人たち思ひおこして御社の東に池を掘り島を造れり南の海辺なる島々よりここらの石を運びてそのはざまにはさまざまの草木を植えたり巌のたたずまひ抔いとめづらかになむされば春は花のころ秋は紅葉の時など人の心をゆかしむべし掛巻もかしこけれどをりをりは神のみ心を慰め給ふらんかかれば菊川の久しくまがだけの動きなくみやしろのさかえむことをことほぎつつかしこみかしこみもしるす
築山
拝殿
本殿
神社名 | 山崎八幡宮 |
住所 | 山口県周南市宮の前1丁目9−2444番1 |
TEL | 0834-63-2550 |
御祭神 | 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、応神天皇、神功皇后 |
創建年 | 770年 |
社格 | 県社 |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【宮崎県日南市】駒宮神社
宮崎県日南市鎮座の駒宮神社
駒宮神社の由緒
駒宮神社は、人皇第一代神武天皇を御祭神を仰ぐ由緒の深いお宮で第四十一代文武天皇の御代に創建されたと伝えられています。また神武天皇は吾平津姫をお妃に迎えられ愛馬龍石号を友にこの地に住まわれた少宮趾ともいわれています。
古跡(御鉾の窟、御手洗池、天皇の井戸、神宮寺跡)
駒繁松跡、当神社東方道路沿いにあり。海辺にて釣をなされた折、白髪の老人から龍馬を与えられ、その馬に龍石と命名の愛馬で鵜戸の父君にお会に行かれる都度、この松に繋がれたと伝えられる。草履石、駒形石、当神社東方道路下にあり、天皇のお草履の跡、愛馬龍石の足跡という。
立石の牧 神社より北へ四キロ国道沿いの山上に跡あり。天皇宮崎の宮居に向かわれるとき、愛馬龍石を草原に放ちになり、その縁りで字名を立石という。それよりこの地牧場となり、日本最古の牧場といわれる。立石の牧と称し江戸時代には牧奉行が置かれた。その駒追には必ず駒宮に参ることになり、一般もこれにならい例祭日には各地からシャンシャン馬が参拝した。この行事も昭和十三年ごろまで続いていたが、このたび駒宮神社シャンシャン馬保存会により復活保存することとなった。
日向シャンシャン馬
「日向シャンシャン馬発祥の地」
当社境内は初代天皇、神武様のご幼時の少宮趾と伝えられている。
日向国神祇史によると鵜戸神宮の縁起に関連して「駒宮アリ、神武天皇ガ舟ツリヲサレシ折、龍神カラ賜ツタ龍石トイフ龍馬ヲ祀ル。折々鵜戸の父君ノモトニ通ヒ給ヒシ時ノ駒繁ノ松趾、駒形石アト古跡ガアル」と記されている。
また天皇がこの地をあとに宮崎の宮殿に向かわれた時、途中宮崎へ四キロ、現在の「立石」の地に愛馬龍石号を放たれたという立石は、龍石号の名が立石の地名になったもので、その後、牧奉行が置かれ駒追の際には必ず駒宮に参る風習から、例祭には近郷の多くの農耕馬が馬鈴をつけ着飾り、馬踊りの奉納や馬の競り売り等で賑わいを極めシャンシャン馬の姿が誕生した。
この歴史を後世に伝える為に、龍石号を偲びこの度奉納されたものである。
古跡 御鉾の窟
駒宮神社境内地は往古人皇第一代 神日本磐余彦天皇(神武天皇)がお若い頃のお住まいとされた少宮趾と伝えられている。日本書紀巻第三によると「年十五にして、立ちて太子となりたまふ。長りたまひて日向国の吾田邑(現在の日南市吾田)の吾平津媛をまきて妃としたまふ。手研耳命を生みたまふ。」と記されている。
右側の山は長田山と云われ、石段上に巨岩がある。神社由緒記によると「神社ノ後方ニ大岩有リ。天皇後ニ宮崎ノ宮ニ向ヒ玉フ時、此ノ岩ノ下ニ御鉾ヲ納メ玉フト伝フ。旧時御神体トシテ奉祀サレシモノト伝フ。」と記されており、紀元二千六百年には記念事業の一つとして玉垣を廻らして石段を整備して面目を一新した。
御鉾の窟
拝殿
本殿
神社名 | 駒宮神社 |
住所 | 宮崎県日南市平山1095 |
TEL | 0987-23-8520 |
御祭神 | 神武天皇 |
創建年 | 697~707年 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【佐賀県佐賀市】男女神社
「今山の合戦と男女神社」
今山の合戦とは、戦国時代、豊後の国(大分県)の大名、大友宗麟と肥前の国(佐賀県)の大名、龍造寺隆信との合戦で、龍造寺の家老の鍋島直茂候(後の佐賀藩祖)が、この今山の地で、大友六万の大軍に僅か七百の兵で奇襲し、総大将大友親貞(宗麟の弟、又は甥)を討ち取った戦いである。
当時この地は仏教繁栄の霊地で、男女神社は、東の谷に講堂棟、西の谷に楼門を持つ大社であり、光明寺(男女神社南東約800メートルに位置し、今は廃寺)の座主(最高位の僧侶)が、男女神社の神座を勤めていたが、この戦いの日に戦火に焼かれ、宝物、古文書等は全て焼失する。
元亀元年(1570)、大友六万の大軍に包囲された佐賀城は、五千の兵力しかなく、軍評定で籠城や降伏論が飛び交う中、鍋島直茂は奇襲(夜襲)を進言、無謀だと否定的だった龍造寺隆信も、母の慶誾尼(けいぎんに)の激で奇襲を決行する事となる。
大友軍本陣は男女神社東の赤坂山中腹に布陣し、八月二十日(陽暦九月十九日)を佐賀城総攻撃と定め、その前日に勝利の前祝いの酒宴を開いた。
主演の情報を知った鍋島直茂は、午後六時頃、佐賀城を僅か十七騎で出発したが、近隣の武将たちも次々に駆け付け、今山に着く頃には七百余りの兵になり、地元の山伏達の量力を得、男女神社の西側から谷伝いに山を登り、密かに大友軍の背後、赤坂山裏側に潜伏する。
明朝七時頃、男女神社北東の大松(昭和三十年頃迄存在)に掛けた鐘の合図で、「寝返った者が出た」と虚報を流し、一斉に奇襲を敢行、武具も付けず油断していた大友勢は大混乱に陥り、同士討ちを始めた軍中で、総大将親貞主従三人は何とか混乱を脱したが、山伝いに逃れるところを、首を挙げられてしまう。総大将を討たれた大友軍は一瞬にして烏合の衆と化し、二千余の兵を討たれて潰走、奇襲は大成功に終わった。
その時、鍋島勢は各々鬼面を冠り、鐘、太鼓を打ち鳴らして奇襲をかけたと伝えらえ、佐賀の郷土芸能の面浮流として現在も残っている。
男女神社は承応三年(1654)佐賀初代藩主鍋島勝茂候・小城藩祖鍋島元茂候の出資で再建、また鍋島元茂は、古戦場跡に正勝寺(平石に現存)を建立する。
大正十五年(1926)佐賀で陸軍特別大演習が行われ、御前講和で今山の合戦の講和がなされ、昭和六年(1931)陸軍大学参謀演習にて、秩父宮雍仁親王殿下が、今山の合戦ご研究のためこの地に立たれ、前方の小円古墳の上に記念碑が建てられている。
「男女神社(旧村社)由来記」
神社の祭神は男女二神である処から縁結び並商売繫昌農の神で古来より尊崇されている。元亀元年(1570)今山の陣で兵火の為、宝物古文書等焼失し、その創建年月は不明であるが、少なくとも今より六百五十年以前に創建されていたと推定される。
七百年の昔建治年間正空上人が光明寺(現在廃寺)を男女神社の南東に建立しその子院末寺も建ち並び此の一帯は仏教繁栄の霊地であったといわれ今も其の地名が残っている。
この頃は神仏習合(混淆)の時代で光明寺の和尚が代々に亘って男女神社座主として管理し神座を勤めていた。昔は大社にて東の谷に講堂あり西の谷に楼門ありし由是故に、東の講堂、横馬場と唱え西を楼門谷と称し、今に堅馬場、横馬場等の地名を有し持って当時の盛大なりし事を想い起こされる。現在の神社は今山陣の兵火で焼失し後に再建されたことは棟銘にもあり承応三年(1654)今から三百三十年前に佐賀初代藩主鍋島勝茂候、小城藩祖鍋島元茂候の出資で再建された事が記されてあり、ここに立てば佐賀平野を眼下見渡された。秩父宮殿下の御立ち寄りの碑もあり、遠く有明の海をへだてて、雲仙の山々が望見され社殿直前には横穴式石室を有し、此の周辺には数百の大小円墳があったが、今はみかん園となり其の面影はない。
現在も大字久留間の氏子により春秋の例祭が行われている。
「鞘の神」
鞘の神は刀身の鞘が由来で、子授け、子孫繁栄、夫婦円満、安産の神とされる。
また疫病災厄等を防ぐ神としても伝えられる
拝殿
本殿
神社名 | 男女神社 |
住所 | 佐賀県佐賀市大和町大字久留間5109 |
TEL | 0952-62-1951 |
御祭神 | 伊邪那岐尊、伊邪那美尊 |
創建年 | 1350年頃 |
社格 | 村社 |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |
【長崎県大村市】昊天宮
昊天宮由緒略記
今から二千年程前(弥生時代)、郡川流域の平野に文化を築いた時代があり、その当時の豪族が一門の氏神として、祖神をお祀りしたのがこの昊天宮です。
その頃は肥前国彼杵郡(現在の東彼杵郡・西彼杵郡・大村市)と呼ばれ、この地域の総鎮守で現在の沖田町付近にあったといいます。
ご神体は、和銅五年(712年 奈良時代初期)、行基菩薩が郡岳(標高826m)の聖域で謹製奉納したと記されています。
永観二年(984年 平安時代初期)大村家初代領主直純公着任以来、大村家の守護神として御崇敬深く、社殿も華麗広大で郡内はおろか他郡からも老若男女の参詣者群をなし、お祭りも流鏑馬等の神事もあり、大変賑やかであったといいます。
文明六年十二月(1474年 室町時代中頃)、大村純伊公が、萱瀬の中岳で有馬氏との戦いに敗れ、日夜、昊天宮に御祈願になり、千日間参拝の誓いを立てたところ「伊勢参宮せよ。」との霊夢を得て参拝の途次、有力な援助者渋江公勢が現れ大勝利となり、文明十二年八月(1480年)御帰領できたのであります。そこで、朝夕戦勝を祈願している昊天宮に詣で喜びの奉告を行い、境内に陣地を敷いて敵の夜襲に備えたところ、それを聞いた宮小路・黒丸・沖田等の領民たちが大喜びで駆け寄り、領主のたくましく成長された姿を見て嬉し涙の中に作った食事が今の大村の「おし寿司」で昊天宮が発祥の地であります。
ここに昊天大神の御神徳を尊び感ぜられ、祭祀の礼厚く社殿の造営・神田の寄進数町等、彼杵群総鎮守としての神社の面目を一新されました。
その後、大村純忠公のキリシタン政策により、天正二年(1574年 安土桃山時代)大村領内の寺社と共に、当宮も焼き討ちにあいました。この時、御神体は、事前に阿金法印により嬉野に遷されましたが、慶長七年(1602年)大村喜前公による再建時に、もともと昊天宮の御旅所であった現在の境内地にお戻りになりました。再興後の当宮は、大村藩総鎮守として、また大村藩主の直祭社として、開運・旗揚げ。安産・厄除け・旅行の守護神として崇敬特に厚く、祭礼には大村藩内四十八ヶ村の村により、氏子・崇敬者・群をなせりと記してあります。
明治になりまして廃藩置県後は群村ににて奉斎しておりましたが明治二十二年四月、町村が規制されてからは竹松村にて奉仕して参りましたので、地名を以て竹松神社と称していましたのを昭和三十六年九月、大昔の通り昊天宮と改名し今日に至っております。
戌の話
犬は「狗」とも書き「日本書紀」には日本武尊が道に迷った折に「白狗」が現れ、これについて行き、無事美濃國に出たことが記されています
「戌」の文字には守るという義があり、狛犬など神域神前を守護する存在として神社に縁深い存在であることは周知の通りです
神前を守護する狛犬の起源は奈良時代からです。京都御所には獅子と狛犬が向かい合わせて描かれています。
「東海道五十三次」で著名な歌川広重の錦絵「伊勢参宮 宮川の渡し」には御祓大麻と銭を首にかけた白い犬が描かれており群馬県では戌年の参宮を非常に縁起のよいものとして特に選んで参拝したということです
犬の諺の一つに「犬も歩けば棒にあたる」があります。何か物事をしようとする者は、それだけに災難に遭遇することが多いという意味でもありますが、反対に何かをやっている内に思いがけない幸運にめぐり会うという意味でも用いられます。
「狛犬」の語源には十二の説があり、例えば神功皇后が高麗に渡った際に犬が軍の先手となって功を成したからであるとか、「高麗」が転じて狛犬になったとか様々な説があります。
拝殿
「馬形の昊天宮神馬」
竹松遺跡の発掘(平成23年~28年)で平成25年に土馬が発見されました。
古代より馬は神様が乗る神聖な守馬と考えられていました。守馬として信仰された馬形埴輪の天空に伸びた耳は国の弥栄を意味し、大きな足は、揺るがない大地、世の中の固めを意味しています。
馬の信仰は、やがて馬形埴輪から土馬が造られ、さらに絵馬奉納へとなっていきます。
竹松遺跡で発見された土馬は、奈良・平安時代、郡の人々が神々への祈りに使用した祭具で、昊天宮の祭祀の古形を現します。現代の大祓神事の起源です。
竹松遺跡を記念して、古代から受け継がれた昊天宮と故郷の永久の栄えを守馬に祈念し奉献致します。
昊天宮には、人々の幸せをお護りする神様がおられます。そこには、こんな話(由緒)もあります。文明六年(1474)十二月、大村純伊公は、有馬氏と萱瀬で数度戦われましたが勝利なく(北松佐々の)加々良ヶ島に七年間潜居されました。その間、日毎夜事、昊天様に武運の高揚を御祈願になり見事勝利の折には千日参拝すると誓願をたてられましたところ、大勝利をおさめられ、文明十二年八月御帰領になり誓願どおり千日参拝を果たされました。昊天様のご加護を尊ばれ社殿の造営等神社の面目を一新、幸を恵まれたと言う意にて「幸天」と改名されたといいます。その後、しばらく幸天神社と呼ばれていました。池田の幸天神社はこの時純伊公の手によって幸せと感謝の心をこめ境外社として創建されました。そして、このご加護を後世に伝えるため城と昊天宮を結ぶ参道に木を植樹し並松(現在の松並・植松・古賀島・西大村・森園・乾馬場)の地名の起源となりました。幸せは広く大村内に広がったのです。この幸せの御利益をいただこうと幸せ灯篭を建立いたしました。幸せ灯篭に灯された幸せへの参道を通り両手をあわせて祈られた時、必ずや神様の御元にその願いが届きますようにと、明々と灯す炎に願いをこめております。
氏子の皆様・崇敬者の皆様そして、御参拝いただく沢山の皆様の幸せが永遠でありますように・・・・・・
神社名 | 昊天宮 |
住所 | 長崎県大村市宮小路2丁目537 |
TEL | 0957-55-8450 |
御祭神 | 伊邪那岐神、伊邪那美神、邇邇芸神、木花佐久夜毘売神、鵜葺草葺草合神、玉依毘売神、天照大御神、須佐之男神、大村直澄神(大村領主始祖) |
創建年 | 2000年程前 |
社格 | |
建築様式 | |
駐車場 | 有 |
御朱印 | 有 |